太宰治心中の謎(10)

9.終わりに

太宰治の墓は、三鷹の禅林寺にある。よく整備された寺である。森鴎外(林太郎)の墓と、太宰治の墓は、ななめに向き合う形で立っている。私がここを訪れた時、どちらの墓にも花が手向けられていたが、鴎外のものは、枯れかかっていたのに対し、太宰の墓の花は生き生きとしていた。

現代においては、鴎外よりも、太宰の方の人気が上らしい。実際、桜桃忌(太宰の誕生日であり、遺体の発見された日の6月19日)には、太宰の墓を大勢の人が訪れ、向かい側にある鴎外の墓には見向きもしないばかりか、知らずに腰掛ける不届きものがいるとか。

津島家の中では、やっかいものであった修治(太宰治の本名)であったが、今では津島家では、歴史に名を残す最も有名な人物となった(次に有名なのは、太宰の長女・津島園子氏と結婚した、自民党衆議院議員 津島雄二氏であろう)。「棺桶の蓋を閉じるまで、人生はどうなるかわからない」と言われるが、世間からの評価は、棺桶の蓋を閉じた時点でもわからないものだ。

津島家にとってはダメ人間であった太宰が、彼のダメさ加減を堂々と文章にしたところが、太宰の作品を読む者の共感を呼ぶ理由の1つではないかと筆者は考える。しかし、太宰の一見告白的な内容の小説を鵜呑みにしてはいけない。この連載で指摘したように、太宰が書いた内容と、事実は一致してはいない。

山梨県立文学館で、太宰研究の第一人者として知られる東京大学準教授の安藤 宏先生の講演を聞く機会があった。講演の後、「山崎富栄との入水は、無理心中であったのでしょうか?」という質問をしてみた。

彼の答えは、「心中については、その時の太宰の心理状態や状況から、いろいろな推測がされている。しかし、私はそうしたアプローチでは、本当に大切なことが見えなくなるリスクがあると考えている。太宰は、自分の心の中を観察されることを最も嫌がるタイプ。学者への欺瞞、虚栄心を批判している。したがって、私は、物としての裏付け、自分で見聞きしたもの以外は、述べるつもりはない」。

山崎富栄と玉川上水での心中の真相は、今後も永遠の謎として残るのではないだろうか。

齋藤英雄

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