それでは、太宰治心中の謎解きの旅を、読者の皆様と始めることにしよう。
1.斜陽館
現在「斜陽館」と呼ばれる太宰治の生家は、津島修治(太宰治の本名)の父である津島源右衛門が建設したもの。明治40年、工事費約4万円をかけて造られた。1階は11部屋278坪、2階は8部屋116坪あり、宅地は680坪もある。内部は洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間等があり、和洋折衷建築となっている。
この大邸宅が完成したころ、源右衛門は250町歩(1町歩=約1ヘクタール=1万平方メートル)の大地主であり、青森県高額納税者番付の4位に躍進していた。津島家は、大地主であるばかりでなく、銀行業務(金木銀行)も営んでおり、地方財閥とも言える存在である。源右衛門は、政治の世界でも活躍した。高額納税者に与えられる貴族院議員の互選資格で、貴族院議員を務めたのである。
その源右衛門から、津島家の家督を継いだのは、太宰の長兄である津島文治である。文治が早稲田大学を卒業した翌日、津島源右衛門は東京で死亡。3月24日、津島文治が津島家の家督を相続した。1925(大正14)年、文治は金木町長に就任する。その後、県会議員を経て、青森県知事となる。後に修治が、社会主義運動に手を染めたとき、文治は、自分の政治生命に悪影響があることを恐れ、修治の活動に釘をさすとともに、離籍させることになる。
斜陽館の入り口を入ると長い土間があり、その左手に座敷が続く。よく見ると、土間に沿って奥に行くほど、座敷の位置が低くなる。主人と跡取り専用の居間(手をかけただけで叱責される)と、他の家族の居間との段差。さらに使用人用の囲炉裏のある板の間の三間の段差と格差。修治は、幼いころ、主人と跡取り専用の居間に上がろうとして、周りから止められたとのこと。
このように、同じ津島家に生まれても、嫡男である文治と、第十子六男である修治の間には、埋めることができない大きな格差があった。大地主の息子として過ごしたものの、母親は、政治家の妻として留守がち。修治は、叔母キエを母親のように考えていた。そして、自分は本当に津島家の子供であるか疑念を抱いていた。しかし、その疑念が誤りであることを知ると、逆に出生の秘密がなく、劇的な生まれではなかったことにガッカリする。
なお、既に修治が死亡していた1950年に津島家はこの家を売却する。それは、文治の政治活動に大変な資金が必要であったためである。これを町内の旅館経営者が買収し、太宰治文学記念館を併設した旅館として改装。太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名した。さらに、その後旅館の経営が悪化し、経営者がこれを売りに出すと、1996年金木町が買い取り、町営の太宰治記念館である「斜陽館」として1998年オープンし、現在の形となる。
斜陽館の中には、太宰治の遺品を展示した蔵がある。この中で、筆者の興味を引いたのは、1936(昭和11)年6月29日に太宰治から川端康成に宛てた手紙である。ここには、川端に対して、『晩年』に第2回芥川賞を与えてほしいと切望する内容が書かれている。
「晩年」一冊、第二回芥川賞くるしからず 生まれてはじめての賞金 わが半年分の旅費のはず 充分の精進 静養もはじめて可能  労作生涯いちど 報いられてよしと 客観数学的なる正確さ 一点うたがい申しませぬ  何卒 私に与えて下さい
この手紙が書かれたころ、太宰は、盲腸炎をこじらせ、痛み止めとして使用されたパビナール(麻薬性鎮痛剤)が習慣化し、その中毒と、薬品購入のための借財に苦しんでいた。背景には、思うように作品がかけず、世の中にも認められないという焦りがあったと推測される。芥川賞に入選すれば、世の中に自分の作品を評価されるだけでなく、副賞の500円??により、経済的な危機から脱することができる。そうした事情が、この切実な内容の手紙に表れている。
結局、『晩年』に対し芥川賞は与えられなかった。この翌年3月、太宰は水上温泉で第2回目の心中未遂事件を起こしたとされる。この水上温泉心中事件に触れる前に、第1回目の心中未遂事件である鎌倉七里ガ浜の事件について検証してみることにしよう。
~つづく~
齋藤 英雄

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