6.玉川上水の調査
太宰治と山崎富栄は、1948(昭和23)年6月13日の深夜から、明け方の間に玉川上水に入水したと考えられている。太宰の部屋がきれいに整頓され、山崎富栄の部屋からは遺書が発見されたので、玉川上水での心中が疑われた。一週間の予定で、玉川上水の流れは上流でせき止められた。そして、二人の遺体は、6日後の19日の明け方、下流の「新橋」近くの明星学園前で、学園の若い教師により発見された。二人は紐でしっかり結ばれていた。
私の知る玉川上水は、一筋の水が流れるだけで、赤ん坊でもない限り、とても水死できるような場所ではない。「なぜ、玉川上水で入水自殺が可能であったのか?」その謎を解くべく、東京都三鷹市の入水場所に行くことにした。
まずは、三鷹駅近くにある「太宰治文学サロン」(伊勢元商店跡地のマンション1階)に立ち寄る。ここには、三鷹市の市民ボランティアグループである「みたか観光ガイド協会」の方がいらして、太宰が入水したとされる場所にご案内いただいた。

入水したと推測される場所には、太宰の生まれ故郷(青森県五所川原市金木町)で産出された玉鹿石が置かれているが、特に解説がないので、この石を見ただけでは、その意味はわからない。やはり、この場所でも、玉川上水には、ほんの一筋の水が流れのみである。
「なぜ、玉川上水で入水自殺できたのか」という私の疑問は、玉川上水の歴史を学ぶことで、氷解した。玉川上水は、人口が急増していた江戸の水不足を解消するため、玉川兄弟が掘削工事を行い、1654年に完成した。東京都羽村市から、東京都新宿区四谷までの43kmの長さである。しかし、1965年に東村山浄水場が完成すると、玉川上水の上水道への水供給という役割は、羽村取水堰から、小平監視所(東京都小平市)までに限定され、三鷹付近を含む、そこから下流へは水が流れなくなった。ただし、1986年東京都の「清流復活事業」により、小平監視所以東に下水処理水を使用して水流復活し、三鷹付近にも一筋の水流が復活したのである。
太宰が入水した時の三鷹付近の玉川上水は、今とは比較にならない程多量の水が流れ、かつ流速が速かった。そのことは、東京の上水道の取水地として、現在でも活用されている羽村取水堰付近の玉川上水の流れを見れば、よく理解できる。太宰が入水した当時の玉川上水は、誤って落ち溺死する人が多く、自殺の名所でもあり、「人食い川」という別名もあったほどである。1919(大正8)年11月には、遠足で小学校の児童が玉川上水に転落し、救出のため飛びこんだ訓導(先生)の松本虎雄が殉職している。そして、太宰はこのことを熟知していた。つまり、太宰が、「玉川上水に入水すれば、心中が可能である」と認識していたことは、間違いない。
~つづく~
齋藤英雄
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