野口英世とアメリカ(2)

1. 野口英世がアメリカに渡るきっかけ

1876(明治9)年猪苗代で生まれ、この地で尋常小学校、高等小学校を卒業した英世は、会津若松の会陽医院で医学の基礎を学び、上京。間もなく、医術開業前期試験合格。さらに、通常7年はかかるといわれる後期試験にも1年後には合格し、医師としての資格を得た。1898(明治31)年、英世は北里柴三郎が設立した私立衛生会伝染病研究所(一般的には北里研究所と呼ばれていた)に入所した。

民間の志をベースにした北里研究所で、英世は助手としてここに勤務していた。官僚でいえばノンキャリ組で、帝大卒のいわばキャリア組とは、処遇に明確な差があった。さらに英世は士族でなく、平民の出とあって、何の後ろ盾もなく、自分の研究に打ち込めるような環境は与えられなかった。

1899(明治32)年4月、サイモン・フレクスナー教授(ジョンズ・ホプキンズ大学病理学教室)が、フィリピンの米軍の衛生状態を視察の後、日本に立ち寄った。彼は世界的な名声を得ていた北里博士を表敬訪問した。その時、英語通訳したのが英世であった。当時、医学の先進国はドイツであったため、ドイツ語を話せる医者は多かったが、英語を話せるものは少なかったためである。3日間英世は、フレクスナー一行の東京案内を務めた。その間、自分を売り込むことも忘れなかった。そして、「アメリカで医学の勉強をしたい」という希望を伝えた。フレクスナーはこれに対して、”That’s fine”と答えたという。この”That’s fine”という意味は、直訳すれば「それは、結構なことだ」ということになるが、私の経験からすると積極的な支持を示すものではない。むしろ、第3者的に「いいんじゃないの。私は反対はしないよ」というニュアンスを含む。英世はこれを「アメリカへの招待」と受け取ったとのことである。彼の当時の英語力がそういう誤解をさせたのか、あるいは意図的に自分の都合のよい解釈をしたのか、2つの可能性が考えられる。筆者は後者の可能性が高いのではないかと推測している。

齋藤英雄

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