4.ペンシルベニア大学にもぐりこむ
野口英世は「なんでもしますから、助手として雇ってください」と頼みこむが、フレクスナーは、「そんな約束はしていないし、自分1人で決めることはできない。申し訳ないが、日本に帰ってくれ」と言う。それでも大学の寮には泊めてくれた。フレクスナーは、英世の就職のため、大学と掛け合ったが、英世を受け入れるポジションも、予算もなかった。英世は、この時自殺まで考えたというが、こうした状況を考えれば、その可能性は否定できない。
結局フレクスナーは英世の粘りに音を上げ、ボランティアという形で、英世を受け入れることにした。給料は月8ドルでこれは、フレクスナーが自分のポケットマネーから出した。当時は一カ月の生活に最低20ドルかかると言われた時代であったので、8ドルではとても生活ができない。英世は極貧の生活を余儀なくされた。それに加え当時のアメリカでは黄色人種に対する人種差別が強く、これが英世には辛かった。
英世は、フレクスナーにより、蛇毒研究者であり、大学評議員のワイヤー・ミッチェル(当時71歳)のところに送られた。ミッチェルは、フレクスナーをジョンズ・ホプキンス大学から、ペンシルベニア大学に引き抜いた人物である。ミッチェルは、30年も蛇毒の研究をしていたが、後継者がなく、大学の評議員の仕事に忙殺されていた。ミッチェルがフレクスナーを引き抜いたのは、フレクスナーの蛇毒の研究における業績を評価してのことであった。彼は、蛇毒の研究をしていたが、毒蛇の飼育と、毒蛇を捕まえて蛇毒を抜き取る作業は、嫌がる人間が多かった。そこで、その仕事をできるかと英世に聞いた。英世は「ハブなら扱ったことがある」と採用してもらうために嘘を言い、なんとか雇ってもらう。
ミッチェルの下で、英世はすさまじい頑張りをする。この仕事について間もなく、フレクスナーが3カ月サンフランシスコに出張することになった。この間、英世は実験のかたわら、蛇毒に関する猛烈な勉強を開始し、フレクスナーが帰ってきたときには、蛇毒に関するあらゆる文献を250ページのレポートにまとめた。フレクスナーとミッチェルは、そのレポートを読み、アメリカ人でも3カ月ではこれだけのものをまとめるのは無理だろうと思った。そして、月給を30ドルにあげる旨告げた。これ以降、フレクスナーと英世は、強い師弟関係で結ばれることになる。
ただし、当初の英世の化けの皮はすぐにはげ、研究者としてはずぶの素人に近いことがわかってしまった。英語の会話もうまくなかった。しかし、フレクスナー研究室の若手4人に何でも聞くうちに、研究者として必要な知識や技能を身につけていった。そうした意味では、ペンシルベニア大学フレクスナー研究室での英世の努力は、研究者として後年活躍する基礎作りの時代ということができよう。
英世はドクターを取りたがっていた。なぜなら日本の医学部を卒業した者にとって海外に留学し、ドクターを取得するのが、日本では最もエリートコースにのることだからである。しかしフレクスナーは、なぜ英世がドクターの学位を欲しがるのか理解できなかった。英世のしていた仕事は、ドクターを持っている人間のする仕事だからである。つまりフィラデルフィアでの猛烈な努力の結果、ドクターを取得しにくる日本人以上の実力をいつの間にか身につけていたというわけだ。
1人で海外に住むのは、誠に寂しい。研究に没頭する英世であったが、それでもどうにもならない孤独感にさいなまれたことは、想像に難くない。英世は、フィラデルフィアで日本人と会うと、すぐに声をかけ、一緒に食事をしたり、飲みに行ったという。そして、深い友情を築いていった。
また、フィラデルフィアに住む親日家のモリス家で毎月第一土曜日に開催される、日本人留学生のためのキリスト教(クウェーカー派)の集会にも参加していた。この集会には、英世の滞在前に、内村鑑三(滞在年:1884-1887)、新渡戸稲造(1884-1887)、津田梅子(1889-1892)も参加していた。英世のフィラデルフィア滞在は、1900年から1904年であるので、これら3偉人との交流はなかったが、苦しい研究の合間に安らぎを得る場として、この集会に参加していたと思われる。
齋藤英雄

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