9. 日本の医学会への反発
もし、英世が日本に止まっていたならば、帝大卒でなく、平民出身であるが故に、十分な研究ができなかったであろうし、また優れた論文を書いたとしても、正当な評価を受けることはなかったであろう。それを英世は良く承知していた。北里研究所での体験から、彼は帝大とりわけ東京帝国大学には、反感を抱いていた。いじめられた経験はあるが、よい想い出は一つもない。後日、日本で論文により博士号をとるが、医学博士は京都大学でとった。東京大学でとったのは、理学博士号である。しかも、論文は自分で提出せず、血脇に一度送り、彼から推薦される形をとった。自分の論文を、自分より実力のない日本の学者に評価されてたまるかとの気持ちがあったのだろう。
英世は、実力をつけるにつれ、日本の学位を国際的に見て価値のないものと考えていった。しかし、日本の家族や知人が喜ぶだろうという理由から、博士号を取得したと考えられる。日本の学者は、ドイツに留学しても、ろくにドイツ語がしゃべれない。それにもかかわらず日本では、ドイツに1-2年留学すると、教授として厚遇されているのが、ばかばかしく思えたに違いない。それにもまして、こうした学者たちが、海外の学説を紹介するだけで、オリジナリティーがない井の中の蛙であることも見抜いていた。
アメリカに渡って15年後、英世は日本で学者に与えられる賞としては最高の栄誉である、帝国学士院恩賜賞を与えられた。この時、東大系の一部の学者に反対が出たが、それを押し切って受賞が決まった。当初、英世はこの受賞のために帰国するのをためらった。研究が忙しいことと、日本の学者、特に東大の学者連に会うのが嫌だったからである。しかし、年老いた母シカの写真が日本から送られて来ると、ようやく日本に一時帰国する決意をすることになる。
日本に15年ぶりに帰ると、英世は予想を上回る歓待を受けた。医学会の重鎮との会合も数多くセットされていた。しかし、英世はどうしても東大医学部にだけは行きたくないと言い張った。一方、東大の方でも「もともと医術開業試験あがりで北里にいた者が、アメリカでちょっと名をあげたからといって、わざわざ迎えに行くまでもあるまい」と言い、英世帰国の出迎えに代表は送らなかった。しかし、当時の医学界の元老格であった石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)が、英世の宿泊先の帝国ホテルを訪ねたことを知り、東大医学部長の青山胤通(あおやま・たねみち)も、知らぬ顔をするわけにいかず、急遽帝国ホテルに英世を訪ねることとなった。これには、英世も「東大の青山が頭を下げに来た」と満足したと言う。
齋藤英雄

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