多摩川の氾濫(1)

昨年の台風19号の時は中野島近辺でも多摩川が氾濫危険水位を超え、住民の不安がかつてないほど高まったことと思う。何年か前に近辺の堤防をいわゆる「スーパー堤防」へと改修したおかげであろうか、幸いにも氾濫を免れることができた。下の2枚の写真は、翌朝のもの。水位はかなり下がってはいるが、土手の色が茶色に変わっているところまで水が来ていたので、あと1m前後で越水するところだった。 この時点の水位でさえ、反対側の道路よりはまだ高い状態が続いていたのだ。我々が現在住んでいる中野島はその名前のとおり多摩川の過去の氾濫によって出来た中洲そのものなのである。多摩川の歴史を考えれば、おそらく生田の丘陵の際まで多摩川は大きく暴れていただろうことが容易に想像できる。つまり、この中野島の地は多摩川のかつての氾濫原の上にあるということである。

多摩川は昔から何度も氾濫を繰り返し、その都度流路を変えながら現在に至っている。これまでの氾濫の回数は文献を見てもはっきりしないところもあるが、最古の記録としては貞観3年(861年)の氾濫がある。また、一説によれば、天正17年(1589)から安政6年(1859)までの間に62回氾濫していたとも言われている。つまり、270年間に62回とは4-5年に1回の割合で氾濫していたことになり、かなりの頻度ではある。

近年になれば堤防もよりしっかりして本流の流路自体が大きく変わることはあまりなくなったかと思われるが、それでも中野島では明治43年の大洪水で庄作桜の堤が決壊し、現在の下布田公園辺りに大きな水たまりができたことが同公園にある北原白秋の歌碑にも記されている。昭和4年に白秋が訪れた時にはまだその池がまだ残っており、それを白秋が多摩川音頭の歌詞に残したものである。

ともかく、多摩川の氾濫で流路の変化した動かぬ証拠は多摩川両岸沿いの地名にしっかりと刻まれている。現在、川崎側・東京側にそれぞれ同じ地名が残されているのがそれである。例をあげると;

川崎側 東京側
多摩区 布田 調布市 布田
多摩区 和泉 狛江市 元和泉・中和泉・東和泉・和泉本町・西和泉
高津区 宇奈根 世田谷区 宇奈根
高津区 瀬田 世田谷区 瀬田
高津区 下野毛 世田谷区 野毛・上野毛
中原区 上丸子・中丸子 大田区 下丸子
中原区 下沼部 大田区 上沼部・下沼部(現 田園調布)
幸区 古市場・東市場 大田区 古市場(現 矢口)

なお、宿河原は現在は川崎側の町であるが、大正6年の地図には多摩川を挟んで東京側にも宿河原という地名が記されており、多摩川によって分断されたことがわかる。しかし、現在の地図からは東京側の宿河原という地名は消え、駒井の一部となっており、多摩川が分断したことを窺い知ることは出来なくなっている。

(Henk)

参考文献:
川崎市史
稲田郷土史料集第1-3巻

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