1.アクラ訪問への逡巡

野口英世とジョン・D・ロックフェラーの取材のため、三浦基弘前編集長とともに、アメリカ東海岸を旅したのは昨年5月。この旅の終わりに、「今度は、野口博士が亡くなったアフリカに行ってみましょう」と、三浦さんから提案があった。正直なところ、私自身はその時、それほどアフリカへの旅には乗り気ではなかった。というのも、どれだけアフリカに英世の遺功が残っているか不明であったし、何よりも未知の大陸アフリカへ足を踏み入れることへの不安が大きかった。

英世が黄熱病で、1928(昭和3)年5月21日に最期の時を迎えたのは、英国領ゴールドコーストのアクラである。ゴールドコーストは、1957年にアフリカ大陸で最初の独立を果たし、ガーナ共和国となった。アクラは、現在その首都である。とりあえず、書店でガーナの旅行ガイドを探すが、見つからない。後でわかったが、ガーナへ観光目的で入る日本人は、年間わずか200名強。これでは、ガーナの旅行ガイドが日本で出版されていないのも、無理はない。しかし、英語のガイドブックなら、英国の出版社から出されていることを知り、取り寄せてみる。すると、「ガーナはアフリカ初心者向きの国」との説明が目にとまった。「野口博士に関して、どの程度の発見があるかわからないが、ともかくアフリカの大地を踏むだけでも意味のあることではないか。今回を逃すと、もう死ぬまでアフリカに行くことはないかもしれない」と思い、三浦さんとガーナ行きの決意を固める。時期は、ガーナが乾季となる10月以降を目安にして、スケジュール調整をした結果、2009年11月下旬となった。

 

2.出発前の準備

ガーナに行くためには、黄熱病の予防接種をしなければならない。この予防接種をしたという証明書(イエローカード)がなければ、ガーナ入国のビザが発給されないためである。出発1か月前に、東京お台場にある東京検疫所へ出かけた。注射担当の医師に、「これが、野口英世が探していたワクチンですね」と言うと、その医師は私が野口英世の取材にガーナに行くと知り、私に関心を持たれたようである。その後、この医師(帝京平成大学教授 西澤(さいざわ)光義先生)のクリニックにうかがったところ、日本医科大学(野口英世が学んだ済生学舎が母体)のご出身とわかった。西澤先生から、日本医科大学で、英世の研究をされている殿崎正明さんを紹介いただき、殿崎さんから、『野口英世-21世紀に生きる』(日本経済評論社)の編者で「野口英世細菌検査室保存会」(横浜)の小暮葉満子さん、小暮さんから、元丸紅アクラ支店支店長および元ガーナ日本人会会長をされていた岩田芳晴さんを紹介いただいた。岩田さんとは出発前にお会いし、アクラで訪問すべき場所や、会うべき人を教えていただいた。この情報は、現地調査で非常に役に立った。さらに出発直前、駐日ガーナ テンコラン(Kwame A. Tenkarong)大使に面会の機会を得、野口博士の資料が残っている可能性のある場所についての示唆を得た。これも、有益な情報であった。

アクラで日本人の経営する旅行会社(ヨシケン・トラベル)へメールを打ってみると、会長の田村芳一さんが東京に出張で来られることを聞き、横浜でお会いする。アクラ滞在中、田村さんには、つきっきりでお世話いただき、非常に効率よく、行くべき場所、会うべき人と面談することができた。これは、田村氏がガーナ日本人会の会長をされ、現地の広範な人脈をお持ちであったからこそ、可能となったものである。田村さんのご協力がなければ、目指す場所に行き、会いたい人に会うこともできなかった。このようにして、善意の絆で、野口博士を尊敬する人々とのネットワークができあがった。

エッセイスト 齋藤英雄

野口英世最期の地アクラ訪問記(2)へ続く

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