誰もが共通の想い出を持っておられることを信じてつぶやかせていただきます。

昭和27年頃、中学1年生の時。
香川県仲多度津郡竜川村、竜川中学校が戦後はじめて映画観賞を授業に取り入れて、弘法大師の生誕の地と言われる善通寺の門前にある映画館に出かけた時のことです。
村にはバスも走っておらず、家に自転車があるのもまれな時代に、生徒を連れて映画館に!校外学習を実行させた先生がいたのも驚きでした。
映画は、美空ひばり主演の「悲しき口笛」でした。私は時々学校の講堂で映画上映会があった時、おじいさんに連れて行かれた思い出しかなかったので、本格的な映画館で観るのは、その時が初めてでした。

私がつぶやきたいのは、“悲しき口笛”のストーリーについてではなく、戦後焼け野原になった街角で、幼い一人の少女が明るく元気に、貧しさに負けずに生きていく姿を描いていた映画に心打たれたことです。
中学生の男の子が暗くなっている座席で映画を観ながら涙が溢れ出ました。
隣の女子がハンカチを差し出して、これで涙を拭きなと言ってくれました。
でも私は、主役の美空ひばりが親方の意のままに街角で唄って、てら銭を稼いでいる姿には、泣かずにはおれなかったのです。
理由など分かりません。どんなに辛くて貧しい生活の中でも、元気に明るく生きて行こうとする少女(孤児)の姿に、実像として心に入り込んで来て私をどんどん引き込んでいったのです。
その映画を観たことで、映画は人にあのような感動を与えるのだ!自分は映画を創る世界に行こう!と心の中で描き始めたのです。

そしてついに先生に申し出を。映画を創るにはどんな学校に行けばいいですか?と聞いたものです。先生も驚きましたが、私は母に伝えて、母が父に伝えて、私は父親にこっぴどく叱られたのです。 「映画を創る大学に行きたいとは、とんでもない。お前は店を継ぐのだ。村で役に立つ人間になるんだ!」という父親の考えは覆ることはなく、私は中学から男子校の高校に進み、秘かに先生が教えてくれた、日大芸術学部を受験するために、父をカムフラージュして普段以上に店のお手伝いをし、高校3年の後半は、ほとんど学校に行かず店を手伝い、父は完全に私が店を継ぐ覚悟を決めたと思いこんでいました。だが、私は学校の副校長に自分の主意を伝えて学校ではテストだけ受けて、大学受験の準備は自宅で深夜、勉強しました。

いよいよ大学受験日が近づいた時、私は弟たち三人に「家出」することを伝えて、大学が合格しなかったら帰ってきて店を手伝い、お前たちに大学を受験させたいと言い聞かせて、夕方、店の品物を農家に配達に行く時に、そのまま家出すると伝え、弟たちがボストンバッグを持って来てくれて、河原の一本松で別れて、私は町の国鉄の駅から丸亀まで行って、夜行列車に乗り込みました。
両親には済まない!と心を痛めましたが、受験だけはさせてください!と心の中で願いながら、次兄のいる東京のアパートに向かいました。

西武線江古田にある日本大学芸術学部は、木造の校舎でした。150名の受験生とともに受験する教室に入りました。皆、頭の良さそうな受験生ばかり、自分は無理だ!無理だな!と思いつつ、テストは終わりました。

合否の連絡先は、東京の次兄のアパートにしてありました。連絡があるまで怖かった!夢だとか、希望だとかではなく、この東京が怖かった!こんな街で暮らすのか?
下宿に戻ると、「トシちゃん、大学から通知が来ているよ」と下宿先のおばあちゃん。
かろうじて、「合格」の通知でありました。喜ぶべきでしたが、体が震えました!両親の店は手伝うことができなくなる。大学への入学金もいる!目の前が真っ暗になりました。

ところが田舎から電報が届きました。
「ゴウカク オメデトウ チチ」 あっ、誰が教えたのか、続いてまた電報が来ました。
「ニュウガクキン シンパイスルナ チチ」
私は涙が溢れて来ました。あの映画館での感動の涙と同じ涙ですが、これが私の青春のスタートのように思います。

皆さんはどんな思い出をお持ちでしょうか?

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