青春の1ページ*奥多摩にヤマメ釣りに・・・X氏のつぶやき72

昭和32年頃、丸井デパートが、分割支払で販売を始めたころです。月払の走りです。四国生まれの私は根っこから釣りが好きで、東京の大学に入った年に、新聞の釣りコーナーにヤマメ釣りの記事が載っていた。それを読んでいた私は、山奥の渓流に早期、ハイカーより早く川に入り、ヤマメ釣りを楽しむ記事に食い入った。釣り竿も糸も釣りもビクも、今まで触ったことのない道具だ。よしこれを用意して、渓流釣りに出かけようと思い、悩んだ。その結果、学校の仲間に聞いて、丸井に行けば、釣り道具が月払いで買える、というので、早速足を運んだ。だがすぐには決心できない。苦学生の身で釣り道具を月払いで買うほど余裕はない。迷いにまよったが、どうしても奥多摩のヤマメ釣りに出かけてみたい思いは高潮に達して、奥多摩の渓流釣りへの交通も調べて、道具を月払いで買うのみになった。

餌はイクラを少し持っていき、あとは奥多摩に入って虫をとって餌にすることも調べておいた。

ヤマメ釣りの道具を買った。10回払いで。靴、リュック、竿、糸釣り、ビクなどを。奥多摩には西武線で行って、あとはバスで夕方に入り、翌朝、早く川に入る行程、夜はどこかで泊まる予定だが、それは行き当たりばったり。小屋があることは調べておいた。奥多摩の日暮れは早い。釣具屋で入漁券を買って川筋に入っていくが、釣具屋で聞いておいた、一泊させてくれる小屋で素泊まりして翌朝4時に起きて、川筋に入っていった。小屋でおにぎり2個を作ってもらっており、初めて体験するヤマメ釣りに入った。

川面に影が入らないように釣り場に立ち、始めは虫をつけて川面に流す。心が躍る!何が起きるのか!糸が流れにのる。魚が飛びついてくるのはどこだ?あの岩のあたりか?川幅の広い流れから、狭い渓流へと入っていく。私の前にはまだハイカーも釣り客もいない。私一人。少し寂しく、怖さもあったが、朝が明けてくると、川面の釣りに集中できる程、落ち着いてきた。怖さはなくなっていた。虫の餌からイクラを付け替えて岩もとに流し込むと、ヤマメが飛びついてきた。生まれて初めてのヤマメ釣りだ。釣り上げて網の中で手にとってみると、なんと綺麗な魚だ!と思った。15㎝以下だと川に返すのが決まりだった。が、初めて釣ったのでビクに入れて、川に沈めて生かしていた。それからは一匹も釣れず、陽が上ってきたので、おにぎりを食べていると、ベテランの釣り人がやってきて声を掛けてきた。

「どうかね」

「初めての釣りですが、一匹釣れました。」

「釣れたか!?どれどれ?ほぉ、立派なヤマメだ。これなら持って帰っても大丈夫、よかったね」

私のヤマメを羨ましそうに眺めて、私をおいて先に渓流に入っていった。人に出会った!ほっとした。一人きりではないという安堵感は、正直あった。渓流でひとりぼっちは不安であった。熊も出るかもと書いてあった。私は、釣ったヤマメを川に返して、早めに帰ろうと思った。今日は帰りのバスに乗り遅れたら、また奥多摩に戻ることになる。それはできない。早く帰って、明日はアルバイト、学校にも行かねばならない。こんな奥多摩に四国の田舎っぺがヤマメ釣りに来ているんだ。お母さんに知らせたらどう思うか?お父さんはどう思うか?お前はとことん釣りキチだねと。一人で問い返しながら、それでもこの渓流釣りを実行したことは、私が一歩大人になった自信のようなものが湧いてきた。

それから丸井で買った釣り道具の月払いが始まった。証明書は学生証でしたので。私が払えない月があると、田舎の実家に督促の支払案内状届く。両親はびっくりして、私に連絡が入る。田舎まで連絡するのか!と丸井に対して怒りが起きたが、それは逆恨み、私が払えなかったからだ!百も承知しても、親に知られては、苦学生の身、少し胸が痛んだ。学業に専念しないで、釣りの月払いとは。

しかし、両親はなんととがめもなく放置をしたまま、私の責任に任せてくれたことを今でも、私を信じてくれた両親への恩を忘れてはいません。ヤマメ釣りは一回きりで終わったが、満足であった。今思い出すことがある。ハイカーと出会った人が私のヤマメ釣りの姿を写真に撮ってくれた。その一枚を長く持っていたのだが、今はどこかに旅に出たまま、私の元にはないが、なかなか様になっていた、渓流釣り人の姿になっていた——と思う若き日の思い出です。

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