私のふるさと~奈良県五條市 幕末から明治について
読みたいと思いながら、余りにもボリュームが多くて勤務してた頃に手が出せなかった超大作、司馬遼太郎の「街道をゆく」全43巻を退職後に図書館で借りて読み切りました。この作品は司馬が1971~1996年の長期に亘って仕上げた作品です、その中の第12巻が「十津川街道」、十津川郷士や明治維新のきっかけの一因となった天誅組を主なテーマにしたものです。
1977年この調査の起点として彼が降り立ったのが五條駅。司馬は取材協力の新聞記者から「五條はとんでもない田舎で、食事をする所もないので大変ですよ、と聞かされていたが・・・」と言う書き出しで始まるのを読んでビックリ。
確かに時代に取り残されて、何年経っても街並みは昔と変わり映えしないが、司馬が取材に訪れたこの頃は、大手スーパーも進出し、飲食店もそれなりに展開してたのに、この「ど田舎で、食事するところもない」と、司馬にインプットした人物はひどすぎるなあと憤慨したものです。
五條市の中心部を吉野川(和歌山県では、紀ノ川)が流れ、川沿いの各所からは弥生時代の住居跡,土器、銅鐸など出土し、米作中心に幾つかの集落が形成されていたようで、平安時代に建立され、国宝となっている八角堂のある栄山寺は、藤原一族の守護寺として発展、また五條の東部にある宇野には「宇野源氏」と称する一族が勢力を有していた様です。因みに宇野源氏の末裔の一人が総理を務めた宇野宗助氏と聞いています。
その後、1600年に関ヶ原の戦いの功で松倉重政が領土を与えられ「大和五條藩」が成立、松倉が長崎の島原藩主として、栄転後の当地は幕府の天領と成り、代官所が設置され、この関係で明治維新後の一時期は「五條県」が置かれた。
尚、島原藩主に栄転した松倉は、同地で領民を顧みず圧政をひいた事が「島原の乱」の原因となったようで、島原城の観光案内版に、その旨説明されています。五條出身者でも、この繋がりを知らない人が多く、現地の観光案内版で思わぬ所で五條との関係を知ってビックリするそうです。
幕末から明治について
五條市を通過する国道24号線の市境界には、「明治維新発祥の地 五條市」という大きな看板が立っています。元々五條市の奥座敷である十津川の郷士達には勤皇の意識が強く、皇居警護に人を出したり、逃避してきた皇族の保護などに、関わった地域だったからと思われますが、倒幕の第一声を挙げ、代官所を襲撃した「天誅組」は十津川や五條の勤王の志士に他藩の脱藩者が加わり倒幕に向けての最初の行動に成った事が、この看板の由来です。
私事に成りますが、私の母方先祖の一族である「森田雪斎」は、頼山陽に師事した幕末の儒者で勤王の先駆者となった人物です。森田が五條在住の折、全国遊学中の吉田松陰が森田を訪ね、思想に共感して森田の門下生となって暫く五條に滞在した時の状況は、彼の日記に記載されています。母が嫁入りの時に、森田雪斎の大きな軸を嫁入り道具の一つとして持ってきており、近々五條博物館に寄贈する積りです。
五條は宇智郡と呼ばれていたのですが、1957年に「五條市」として市政施行され、今日に至ってますが、市政施行直後の人口は45千人、その後周辺地域を合併して面積が拡がったにも関わらず、2021年末の人口は、27千人まで縮小。
毎年右肩下がりで人口減が続いています。五條に隣接する東側の市には近鉄、西側には南海が乗り入れているのに、五條を通っているのは、JRのみで、大阪への通勤には不便なのが人口減の最大の要因と思われます。
私の生家のある地域は五條市の郊外にあり、過疎化から中学校は10年以上前に、小学校は昨年に廃校となり、中心部の学校に統合されてしまい、自分の母校の消失は本当に寂しいものです。
生家の周辺では高齢化が急激に進み、耕作放棄された水田が年々増加してるのが目立つようになりました。私は1967年大学進学まで、その郷里で過ごし、昨今は生家の維持管理に行く程度ですが、家は何時でも住めるように、水道 電気は使える様にしており、無人の家ながら毎秋には庭師を入れて庭木の手入れは継続、将来住むことも無いのに無駄やなあと思いながら、心の古里を維持しています。
歳を重ね、家まわりの雑草処理の草刈り機を振りまわすのも、体力的にきつく成って来ましたが、体力の続く間は継続する積りです。車が無いと身動き着かない場所なので、運転免許返上の時にはどうなることやら。
幼少時、彼の地での生活は、まさに自給自足の様な生活でした、魚は和歌山市から背中に背負って行商にくるオバサンが、唯一の仕入れルートで、塩サバ 開きサンマなどの塩干魚だけ、後は吉野川での川魚を捕獲、夏場は川に入りびたしで、魚を追っかけてオカズにしたものです。
この和歌山から入って来た塩サバが、五條名産の柿に出会って「柿の葉寿司」が誕生、今や全国区に成長した「田中の柿の葉寿司 本舗」は五條に本店があります。味噌 醤油も自家製産、麹の種菌を買ってきて麹を作るところから、作業がスタートです。
家で揚げ物をする時は、自家栽培の菜種と一升瓶を持って、近所の搾油所にいって、工賃を払って搾ったキャノーラ油と絞り粕(肥料に使用)を持ち帰る、今の時代では考えられない、ある種の贅沢な生活だったのかも知れません。
玄米も自家精米機で精製、梅干しも勿論自家製です。塩分多めの梅干しで育った私には、市販の塩分控えめ(防腐の為に蜂蜜添加)梅干し
は、どうしても自分の口に合わず、亡母に書いて貰ったレシピを元に自分で漬け込んでいます(塩分20%) 、これが結構評判良く、色んな人達から頼まれ、彼らの分を含め大量に漬け込んでいます。
小鳥、蜂の子、イナゴ等も自分で捕獲して食べたもので、今と成っては大変懐かしい想い出になっています。
最近は時々しか足を伸ばせませんが、帰る都度、気持ちがリフレッシュしてるのを実感する「私の心のふるさと」です。
山仲春男
最近亡くなったミステリー作家、西村京太郎は出身でもないのに十津川が大好きだつたようで、主人公の十津川警部の名はここから来ているらしいですね。
私も嫌いではなくこのシリーズをよく視聴しましたが、今でも相変わらずたくさん再放送されているようです。