私のふるさと~大阪府茨木市 幼き者の世界

私の生まれは大阪だが小学生になる前にこちらに引っ越してきた為、大阪での出来事などを思い出そうとしてもそんなに多くは出てこない。ただ残っている思い出の中で、ずっと忘れられなかった物がある。それはある滑り台だ。滑り台といっても公園でよく見かけるタイプではなく、石でできた崖のような形の滑り台で、その大きさがとにかく大きかったのだ。

私の記憶の中では小学校にある体育館ぐらい大きかったはずだ。その為、幼かった私は滑り台のてっぺんのあまりの高さに怖がり、一度もそこから滑り降りることができなかった。私よりも少し年上の子供達が意気揚々と滑っていく中、私は下の方で滑るのがやっとだった。「今度こそは頂上から滑りたい」と当時の私はそこに行く度に思っていたのだが、結局その勇気を出す前に引っ越してしまった。

あれから20年以上経ち、ふと自分の生まれ住んでいた場所が気になった。当然あの滑り台の事も頭によぎる。

「あの日あの時あの場所で滑り降りる事ができなかった無念を晴らしたい」

私に故郷探訪の目的ができたのだった。

しかし問題が一つ、私はその滑り台がどこの公園にあったのか覚えていなかったのだ。頼みの両親もそんな滑り台があった事さえ覚えておらず、私は少ない当時の記憶から例の滑り台があった場所を推測するしかなかった。

・滑り台のあった公園は大きかったはず

・一人では行けなかった

・住んでいた家からは離れていて行く時は父か母の自転車で連れて行ってもらっていた

つまり、自宅から子供だけでは難しいが大人であれば自転車で行ける範囲かつ大きめの公園がその滑り台がある公園…かもしれない。私は地図と睨めっこしながらそんな条件に当てはまる公園を探した。そして見つけたのが西河原公園だった。結論から先に言えば私のこの推測は当たっていたのだが、万が一この公園でなかったとしたら現地で誰かに尋ねよう、と心に決め私は大阪に向かったのだった。

 

新横浜駅から新幹線で京都へ、そして在来線を乗り継ぎ私は自分の住んでいた町に20年以上ぶりに降り立った。20年以上も経っていたこともあり自宅の最寄り駅前の雰囲気は当然変わっていたが、区画などは当時のままだったので少しだけ懐かしさを感じることができた。

そしていよいよ西河原公園へ向かう。その公園は広く敷地内に野球場など色々な施設がある公園だった。なんとなくだがこの公園に違いないと思った。そしてたまたま通りかかった人に滑り台の事を尋ねてみると「この先にある」とのこと。「推理は正しかった!滑り台はまだ残っている!」胸の鼓動が高鳴っていくのがわかった。

「今日、あの滑り台を制覇するのだ!」

場所を教えてもらいしばらく歩いた先に滑り台はあった。20年以上ぶりの対面。そこにあった滑り台は私の記憶の中にあった物で間違いなかった。

「あの滑り台だ!…でも…」

そこにあった滑り台は高さが3〜4メートルぐらいしかなかった。もちろん一般的な滑り台に比べれば大きい方だろう。初めてこの滑り台を見た人は間違いなく「大きい!!」と驚くはずだ。しかし…しかし、私の記憶の中にある滑り台は「体育館」ぐらいの大きさなのだ。それに比べれば小さすぎる…。

目の前では子供達が楽しそうに滑り遊んでいる。私はしばらくの間その光景をただただ眺めていた。冷静に考えればわかる事だ。体育館ほどの大きさの滑り台なんてあるはずがない。もしも存在しているなら話題になってテレビなどで取り上げられているはずだ。訪れる前までの「今度こそあの滑り台の頂上から滑り降りるのだ!」という意気込みはどこへ行ってしまったのか。結局、私は滑らずにその場を後にした。

「幼き者の世界は大きな物で溢れている」

いや、「幼い頃はあらゆる物が大きく見えている」というのが正確な表現なのだろう。体育館ほどの大きな滑り台。もう二度とあの滑り台を滑る事は叶わないのだ。

まーぼー

私のふるさと~大阪府茨木市 幼き者の世界” に対して8件のコメントがあります。

  1. アバター Henk より:

    まーぼーさん
    微笑ましく、読ませて頂きました。同感です。
    誰しもが持っている、それぞれの子供時代の昔の懐かしい記憶の中の世界。
    その世界では、ずっといつまでもその滑り台はとてつもなく大きいままですね。それに、その世界では固有名詞なども多分ないと思います。
    私も、似たような記憶が今も鮮明に蘇ります。大きなお兄ちゃんたちの真似をして、跳びそこなって落ちた大きく深い川も大人なら簡単にまたげるくらいの小さな流れだったり、随分歩いて遠くまできたと思っていた所も、大人になって歩いてみるとあっけないほどに近くだったり(笑)。
    でも、記憶の中の昔の世界はとてつもなく大きかった。

  2. まーぼー まーぼー より:

    Henkさん
    コメントありがとうございます。
    大人にとっては簡単にまたげる川が大きく深く感じたり、ちょっとの距離を随分遠くに感じたり。
    子供の頃、きっと誰もが冒険者だったのかもしれませんね。
    共感して頂けて嬉しいです。

  3. アバター mats より:

    まーぼーさん

    楽しく読ませていただきました。
    「うん、そうだそうだ、そんなんだよな~」と相づちを打ちながら小さいころのいくつかの記憶が蘇りました。幼稚園の頃まで暮らしていたのは京都の東山あたりでもう半世紀以上(と、もう少し・・)昔のことながら不思議と追憶はカラー映像付きで頭に浮かびます。
    道から離れた斜面の大木にたくさんのタマムシが輝きながら飛んでいる情景、捕りたいけれど子供の網ではとても届かず憧れて眺めているだけだったのがすぐそばのお寺の小僧さんが物干し竿の先に網をつけて捕ってくれて狂喜したときの羽の輝き、薄暗い谷川を無数に飛ぶハグロトンボの怪しげな黒い羽と緑に輝く胴体に囲まれた幽玄なあの別世界、私の場合どうも圧倒的に虫がらみの記憶が多いのですがそれぞれは短いものの動画のデータとしてどのように脳に格納されているのかは実に不思議です。
    相変わらず自然の中で生きものを見るのが好きなのでよく野山川を歩きます。タマムシもハグロトンボも見る度に心を奪われ昔の記憶が重なるのですが幼い頃ほどの衝撃までには至らず、あの日に戻ってみたい気がします。

  4. まーぼー まーぼー より:

    matsさん
    コメントを頂きありがとうございます。
    子供時代に戻りたい、私も思う事があります。
    子供の頃に感じた感動は何にも変えられない宝物だったのだ、と大人になったから思うのかもしれませんね。
    これから大人になっていく子供達がそんな宝物を見つけられるような環境、世界を残していく事が元子供であった大人の使命であると最近思うようになりました。

  5. アバター suzu より:

    まーぼーさんへ
    滑り台の記事温かく読ませて頂きました。
    そこで私(女児)の滑り台の苦い出来事を思い出しました。
    九州の片田舎の幼稚園(通称かまぼこ幼稚園)
    そこで滑っていたらパンツが破れてしまいました。
    近所の米屋の悪ガキがそれを見て笑い女児は初めて恥ずかしい思いをしました。
    気弱な幼子は登園拒否になり退園しました。
    あいつ今なにしてるかな!!な~~んてね
    今その幼子は心臓に毛生えていますけど・・・ワハハ

  6. まーぼー まーぼー より:

    suzuさん
    コメントを頂きありがとうございます。
    suzuさんの幼稚園での出来事、顔から火が出るくらい恥ずかしかったことかと思いますが、コメントを読んで思わずクスッと笑ってしまいました。
    米屋の悪ガキ君はどんな大人になったのでしょうか、紳士的な男性になっているといいですね。

  7. Sherlock Sherlock より:

    小さい頃、我が家から歩いて町中に出ることはちょっとした遠出に感じた。覚えているのは、たまに連れて行ってもらった映画館、帰りに立ち寄った直ぐ側のラーメン屋。何かを買ってもらいに出かけた商店街、そして、毎年大晦日の12時を過ぎると、神社まで家族全員で歩いてお参りしたものだ。

    田舎育ちの若者が都会に出て何十年経って帰省して、通い慣れた駅に降り立ったその時から何故か町が小さく感じるのだ。町を端から端まで歩いてもその距離はたかがしれている。まして、車で回ったりするとあっという間に市内全てを回れてしまう。

    幾つくらいまでであったのか定かではないが、幼い頃に大きく見えていた世界が大人になると小さな世界であったことに気づく。記事の中では、家の近くの公園にあったすべり台がとてつもなく大きい存在であったと書かれている。対象は人それぞれだが、みな同じような体験をしているところが面白い。

    何故こんなことが起こるのだろうか。これはきっと、人間の脳が体の成長に伴ってどんどん新しい情報を吸収し、たくさんの知識を蓄えることで感受性や判断力などをつけ、次第に研ぎ澄まされていくことによるものなのであろう。つまり、現実のサイズをはかり知るという機能が発達することによるものだ。違うかいワトソン君?

    ただ、成長したはずの脳で考えたことが必ずしも人間として正しいことなのかどうかは別の問題だ。「大人の世界」と言う言葉には「汚い世界」と言う意味が含まれている場合があるように、知識の少なかった子供の世界で感じたことの方がよほど純粋で優しいことが多い。

    ウクライナ侵攻も大人が考えて大人が犯した過ちである。醜い大人にはなりたくない。いつまでも子どもの心を忘れずに生きていきたいものだ。

    Sherlock

  8. まーぼー まーぼー より:

    Sherlockさん
    コメントを頂きありがとうございます。
    私もこの故郷探訪では、滑り台以外にも商店街が思っていたよりも小さくて驚きました。
    今考えてみると、子供でいられる時間はあっという間に過ぎてしまいますね。
    小さい頃、喧嘩しても「ごめんね」の一言で仲直りできたはずなのに、大人になるとその「ごめんね」がなかなか言えない。
    私達は成長する中で色んな物を見て知り世界を広げているつもりですが、その中で失った物も沢山あるのでしょうね。

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