私のふるさと~東京都新宿区四ツ谷の思い出(その2)
神宮や新宿や新宿御苑も徒歩圏内で、草野球を見たり少年チームとして参加したり、日比谷公園も神楽坂も歩いて近く、子供ながら行動範囲は広く、暗くなっても帰らず、親たちの心配の種だった。
四谷第三小学校は元大蔵省の建物で、当時の学校としては珍しい鉄筋の3階建だった。部屋数が多かったが、一学年で2、3クラスしかなく、ひとクラスに30人ほどであった。部屋の半分は未使用で、その部屋にまでテレビがあるという当時ではテレビも十分普及していない時代でかなり贅沢な校舎だった。
地域住民からの寄付も多く、何から何まで贅沢で、先生も優秀だったようで、生徒の半分は都内各地からの電車で通学してくる「越境入学者」だった。それは子供だけ学校近くの親類や知人の家に住民票を移していたのだ。今思い出すと、全てお金持ちの生徒ばかりで、私は貧乏の方だったが、遊びも生活も皆と一緒に贅沢な経験を沢山させてもらった。それがその後、大人になっても贅沢な人間になってしまい、その為に必死で働いている。
同じクラスの女生徒で、その後に四ツ谷駅隣の、雙葉女子中学・高校、さらに上智大学に進学し、小学校から最後まで徒歩だけで通った贅沢な奴もいた(笑)。
まだマンションという建物が無かった時代に、同級生が完成したばかりの4階建ての「四ツ谷コーポラス」日本初のマンション(各部屋は2階があるメゾネットタイプ)に引っ越し、遊びに行って驚いた。外濠公園を見下ろす部屋で、ピアノやテレビや冷蔵庫、洗濯機、ソファーもある、御殿か?と。
1959年に当時の皇太子ご成婚の時は、四ツ谷を通る新宿通りを馬車が通り、私も日の丸の旗を振った。そのご成婚で、日本のテレビ所有が急増し100万台を超えたらしく、軽井沢のテニスコートでの出会いのストーリーは毎日放送された。
同じ年に営団地下鉄丸ノ内線が開業し、国鉄中央線の急行が停まる四谷駅の隣にその駅ができた。電車でもバスでも歩いても、どこへも行ける立地環境最高の住宅地だった。(その3に続く)
東 賢太郎