私のふるさと~東京都新宿区四ツ谷の思い出(その3)

小学5〜6年生時の担任が「予科練上がり」でまだ若く、厳しく、登校時にハンカチとちり紙を忘れると、そのまま自宅に取りに返され、授業中は手を後ろに回して姿勢を正し、少しでもよそ見をすると即黒板消しが飛んできた。

 私は毎週、四ツ谷3丁目交差点近くの映画館「ライオン座」へ通った。東映(片岡千恵蔵)、新東宝(高島忠夫)、日活(小林旭)の時代で3本立で子供は40円。

 毎週月曜日の朝は授業前に「東、昨日の映画の話をしろ!」だった。これは人前で話す経験になった。今でも口から先に生まれたかのようによく喋る。3年前まで「川崎FM」で毎週サテライトの生放送で30分のトーク番組をゲストを招き、全て一人で制作とパーソナリティして375回喋った。

 その小学校では学期ごとにある父兄会に理由をつけて参列しないと担任が「その用事と子供とどっちが大切なんだ〜!」と電話で怒鳴りつけて父兄を震え上がらせた事は誰でも覚えている。

 そのように皆が緊張の毎日だった。しかし優秀な先生で、一旦学校を離れると気さくで優しい人だった。礼儀、沢山の理科の実験、生徒を連れて日曜日は沢山の山登り、海や川では石を広い標本作り。今でも「そのお陰」と皆が振り返っている。
 
 昨年、優秀で東大に進んだ小学のクラスメイトが亡くなった。毎年そんな訃報が舞い込む歳になって、昨年ひとり車で懐かしい四谷界隈を巡り、「もうこれが最後になるかも」などと独り言を言いながら、すっかり変貌した四ツ谷の街を巡った。
(その4に続く)

東 賢太郎

 

編集者注:写真は昔の四ツ谷駅(1976年頃)

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