私のふるさと4~和歌山県新宮市 熊野詣

歴史3  熊野詣
和歌山県新宮市について、前回と前々回で全ての歴史の始まりである神話の中から「神武天皇の東征」を紹介した。そして、筆者が名乗っているハンドルネーム「八咫烏(ヤタガラス)」の由来についてもおわかりいただけたと思う。
今回は、はるかなる悠久の歴史の中で、上皇や天皇をはじめ武士、町民と身分を問わず多くの人がこの地を訪れたと言われている記録を辿ってみよう。

平安時代、熊野三山信仰が盛んになったのは、当時の浄土信仰のひろまりによるものであった。本州最南端にあって京都からみて真南に位置する熊野は、現世における極楽浄土とみたてられた。上皇から下々の庶民まで誰もかれもが参拝にと押しかける様子は「蟻の熊野詣で」といわれた。

仏教化して熊野三所権現などと称するようになった熊野三山でも「現世安穏後世極楽」のキャッチコピーでしきりに宣伝し、熊野曼陀羅(くまのまんだら)や熊野午王護符(くまのごおうごふ)を携えた先達や御師(おし=山伏)や熊野比丘尼(くまのびくに)を諸国に派遣して、参拝を呼びかけていた。

熊野曼陀羅というのは、本宮、新宮、那智の三山の神仏や社殿を描いた垂迹画(すいじゃくが)で、御師や熊野比丘尼たちはこの曼陀羅をおもしろおかしく絵解きして民衆に三山信仰をひろめたものである。

一般に熊野の地全体が観音の補陀落浄土と考えられたが、本宮は阿弥陀仏のいる西方浄土、新宮は薬師如来のいる東方瑠璃浄土、那智は観世音菩薩の住む補陀落浄土にみたてられていた。

京都から熊野へと詣でるコースは、南鳥羽から淀川下りの川船に乗って大坂の八軒屋に上陸し、現在の阪和線のルートを南下して紀州北部に着き、海南の藤白王子から湯浅ー小松原ー切目ー田辺と抜け、さらに山間部をとおって湯ノ峰温泉-本宮に出る中辺路が一般的だった。

中辺路の稲葉根王子から上流の富田川は、昔は「岩田川」と呼ばれていて、熊野詣の水垢離(みずごり)場だった。熊野詣をする上皇や隋従の公卿たちは、ずぶ濡れになって川を渡り、女院は二反の白布をつないだ結び目につかまり、大勢の女官たちにつき添われて川を渡った。奥熊野の入口にある吼比狼(こびろ)峠は、昼なお暗い難所で、樹上から蛭がよく落ちてきたため、別名を「蛭降峠」ともいった。京都から本宮まで、およそ七三里(約三〇〇キロ)である。

本宮からは川船で下流の新宮に出て速玉神社を拝し、王子ヶ浜から御手洗をまわり、三輪崎、佐野をへて那智に上った。那智の浜にある浜ノ宮大神社は浜ノ宮王子跡で、渚ノ宮とも呼ばれた。那智山に参拝する前、ここで潮垢離を行なって身を清めた。
帰路は那智から大雲取、小雲取を越すか、きた道をふたたび帰るかだった。三山めぐりが二八里(一一二キロ)。京都からの往復では一七四里(約七〇〇キロ)の大旅行である。

延喜七年(九〇七)の宇多上皇から弘安四年(一二八一)の亀山天皇まで数えて一〇八人の天皇・上皇の御幸をみた熊野詣では白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇のころに特に盛んになった。

平家の勃興は熊野三山の加護によるものと信じられていたにしても、後白河は三四度、後鳥羽上皇は二九度という熊野詣の
回数はすさまじい。

(情報提供:故新宮正春氏:新宮高校の先輩で元報知新聞記者、長嶋茂雄夫妻の実質的な仲人)

〜つづく〜
西  敏

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