私のふるさと~奈良県五條市3村の日常・お寺とお墓・お宮と祭り
5.村の日常と行商
車が通り出して物流が変わるまで村は長らく徒歩の時代が続き、自給自足の生活で足りない物は行商に頼っていた。旧くは越中富山の薬売り、各家庭に常備薬を置き年に1度行商に回ってきた時、使った分だけ精算する。その他は食品や衣類で冷蔵庫の無い時代魚の干物は貴重な蛋白源であった。道沿いには太いタイヤの自転車に商品を満載したおじさんが来ていたが、ハエのとまった鯨肉は真っ黒な色をしていた。山の上に住む人に対しては大きな風呂敷を担いで家を一軒ずつ回るおばさんがいた。売り物のジャコを欠けた前歯で齧りながら計り売りする乾物屋のおばさんの姿を今でも思い出す。
6.お寺とお墓
夫々の在所にはお寺があり、宗川野には後醍醐天皇の第11子無文元選が1340年建てたとされる真言宗のお寺「水石山宝蔵院」がある。お寺は昔から集会所兼避難所で、今でも寺の後ろには大きな防空壕がある。この寺にはもともと住職が住んでいたが後に富山の寺に移動になりその後は富山から出張してくれていた。涅槃会の時など大きな涅槃図を掲げ、その前でお坊さんが説法をしてくれる。青の洞門(恩讐のかなたに)の話が今でも記憶に残っている。その後はお供え物の涅槃団子撒き(穀撒きと言った)があった。村人とお寺の距離は今よりずっと近かった。
寺には過去帖と呼ばれる奉納や葬式の記録があり、これを見ればある程度ご先祖をたどることが出来る。住職が居なくなった後、村の狂人が雨に打たせてしまい廃棄すると言う事件があった。今となっては先祖の痕跡はたどれないが、その前に母が聞いて書き写したメモと位牌が我が先祖をたどる唯一の手がかりである。
お寺の横には詣り墓が在る。隣の在所の立川渡は火葬なのに我が村は昔から土葬で両墓制を採っており埋め墓と詣り墓が夫々別の場所にある。埋め墓は家ごとに墓地が決まっているので同じところを掘れば先祖の骨が出て来る。我が家では祖父母、父までは座棺に入れての土葬、母は妹の住む岐阜で火葬した。村では平成の初めまで土葬が続けられていたことになる。土葬では死体から出る燐で火の玉が飛ぶ。実際、盆踊りの時、中学校の校庭から墓地に飛ぶ火の玉を見たことがある。
昔はどこも葬式は家で行い、埋め墓まで野辺の送りを行った。肉体を仮の宿りとしか見ない仏教の正式な作法ではないと思うが、我が村ではお坊さんも墓まで送ってくれる。先頭の三人が夫々、 引磬、太鼓、鐃鈸
を持ってチーン、トン、シャラシャラを繰り返しながら進む。農協のマイクから御詠歌が流れ村中に響き渡る。
7.お宮と祭り
村の祭りと言えば盆踊りとススキ(神様に献灯する)、秋の品評会である。
盆踊りは中学校の校庭で行われ、村の人が輪になって踊る。近隣の村からも集まって多い時には輪が3重にもなった。定番はレコードが流れる炭鉱節であるが古くからの祝歌を肉声で歌うのもある。盆踊りはひと夏に何度かあって青年達は梯子して村々を回る。平安の昔から夜這いの風習はあったというし、盆踊りは若者の数少ない交遊の機会ではなかったか。
ススキは御神灯を5層に吊るした神輿で、中に太鼓を叩く者が座りこれを皆で担いで村の中を練り歩き最後は中心にある八坂神社に奉納する。神輿は各集落単位で出し多い時には5~6基出たこともある。これらが夫々の在所の人達に引かれ神社までの坂を登る姿が我が家からはよく見えた。クライマックスは、広くもない神社の境内で2組ずつ舞いを競いぶつかり合う。「ソレ差せ!ヤレ差せ!」担いでいたススキを高々と突き上げ、太鼓が狂った様に打ち鳴らされる。酒も入ってケンカにもなる筈。これもその内若い人が村を出て担ぎ手が居なくなり廃れていった。最後の年にはNHKが収録に来ていたが放映されたのは観たことがない。
品評会は秋の収穫を競うもので、どれだけ大きなものを収穫したかで優劣を決める。この頃どんな小さな田んぼを持つ家でも牛を飼っていたが毎日の 飼い葉刈りは大変だった筈で不経済なことだと思う。品評会では母の実家の松場の牛がいつも優勝していた。この牛は誤って牛小屋近くに置いてあったホリドールの瓶を長い舌で巻き、飲んで死んでしまった。丁度耕運機と入れ替わる頃だった。
つづく
土谷重美
土谷さんの挿絵と文章に魅力されています。
私のふるさと1〜3を読ませていただきましたが、ほんとに素晴らしいです。昔のことがよくわかり、土谷さんと同年代の方なら、懐かしくてたまらないと思います。若い人にも、是非、読んでいただきたいです。土谷さんは、風景も人物画も何を描かれても味があり、画集を出してほしいくらいです。また、新しい作品をお見せてください。楽しみにしています。
コメントありがとうございます。友人を通してメールで知らない人からの感想も何通か頂いています。場所は違っても同世代は皆似たような生活を送っていたのだなと改めて知らされました。平安の昔から村の生活は殆ど変わっていなかったのでしょう。村を出ることも無く、山に囲まれた小さな空間が世界のすべてだと思っていた。車が入ってきて他所との交流が盛んになって一挙に村の生活が変わってしまった。私らの世代は丁度その端境期に居たのでしょう。日常が忙し過ぎて子供たちともこんな話をする機会が無くなる中で終末期を迎え、せっかく与えられた生をまとめる意味でも来し方を書き留めておこうと思いました。