シンゴ歴史めぐり7 家康のつぶやき 織田天童藩の巻 前編

先日、ある会合で、山形県の東根市におられた方から、隣の天童市は信長様の子孫が藩主で、色々といきさつがあったように聞いていますが、実際はどのようだったのでしょうかと尋ねられました。
その時は立ち話で、あまりお時間がございませんでしたので、天童藩は幕末に近い1831年に信長様の次男である信雄(のぶかつ)(1558年~1630年)の子孫により立藩され、1871年の廃藩置県で、わずか40年間存在した藩でしたよと、簡単にお話しました。
しかし、それだけでは天童藩を語るには、あまりにも簡単過ぎますので、今日は、幕末に存在しました天童藩と、織田信雄の子孫たちの織田家についてお話させていただきたいと思います。
また、その天童藩が明治元年の戊辰戦争で、新政府軍と東北諸藩の間で翻弄されたお話を、この次の回にさせていただきます。

信雄の系統は天童藩につながる家系の他に、信雄の5男の高長(1580年~1674年)から始まる大和宇陀(うだ)松山藩(奈良県宇陀市)がございました。
しかし、その宇田松山藩は高長の孫の信武(1655年~1694年)が、重臣たちの勢力争いに巻き込まれ自殺したため、その騒動の責任が織田家にあるとして、廃藩となり、信武の長男の信休(1678年~1723年)が減封されて、丹波柏原(かいばら)藩(二万石)(兵庫県丹波市柏原)に移されました。そして、その柏原藩も廃藩置県まで続いたのでございます。
現在のスケート選手の織田信成君は、この柏原藩の織田家の子孫のひとりと伺っております。

また、信長様の弟君で、茶人で有名な織田有楽斎様(1547年~1622年)が持っておられた、大和国の柳本藩(一万石)(奈良県天理市柳本町)と芝村藩(一万石)(奈良県桜井市芝)の小さな藩も、城主格大名として廃藩置県まで存続しておりました。

さて、お話は信長様が無念の最後を遂げられあの本能寺の変まで遡ります。
信長様の跡継ぎであられた信忠様(1557年~1582年)は、本能寺の変の時に、信長様に随行しておられ、二条城でお亡くなりになりました。
その時、三歳であった、孫の三法師(秀信、1580年~1605年)は、本能寺の変の直後の清洲会議で秀吉様により信長様の後継者とされ、信長様の三男の信孝様(1558年~1583年)が、その後見役とされました。

しかし、信孝様は柴田様に加勢され、秀吉様との戦いの後に自刃(じじん)されました。
三法師、元服してからの名前の秀信は、関が原の戦いで西軍側についたため、私は出家させ高野山に登らせましたが、高野山からも追放され亡くなっておられます。
これは信長様の高野山攻めへの仕返しだと推察します。

結局、要領が良かったというか、何にも考えていなかった『暗愚の将』と呼ばれました信雄が織田家の跡目を継いだ形となったのでございます。
信雄は清洲会議で、秀吉様と何か裏の取引があったのか、尾張・伊賀・南伊勢合わせて百万石の領主となりました。
しかし、秀吉様が1590年の小田原征伐の後に、私の治めていた駿河に信雄を配置替えしようとされると、それに同意しなかったので、秀吉様の怒りにふれ改易となり、その後は下野(しもつけ)国烏山(からすやま)(栃木県那須烏山市)に二ヶ月ほど流罪となり、出家して常真と名乗りました。
その後、出羽国秋田や伊予国へと流され、1592年の朝鮮出兵の際に、私が仲介して、やっと赦免され、秀吉様の御伽衆(相談役)に加えられて、大和国内に1万8,000石を秀吉様から頂戴したのでございます。

そして、私があれだけ面倒を見てあげましたのに1600年の関ヶ原の戦いで、信雄は大阪に居て、どっちつかずの状況でしたので、今度は私が我慢できずに信雄を改易してしまいました。
そして、1615年の大坂夏の陣で信雄は、やっと、私共の間者としての役割を演じてくれましたので、私は、信雄に上野(こうづけ)国小幡藩(群馬県甘楽(かんら)郡)2万石と大和国宇陀(うだ)松山藩3万石を合わせた
5万石を与えたのでございます。
織田家は信長様以来の名族でございましたので、国持大名格の待遇をも与えたのでございます。信雄は、のちに4男の信良(1584年~1626年)に上野小幡藩2万石を、残りの大和宇陀松山藩の3万石を5男の高長に譲ってしまいました。そして、自分は京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送ったのでございます。
それで、信雄の織田家は小幡藩と宇陀松山藩(→丹波柏原藩)で続いていきました。丹波柏原藩の方も、先ほど少しお話ししましたようにいろいろと話題が多い藩ではありますが、今回は天童藩へと続く小幡藩についてお話をさせていただきます。

小幡藩は信良を初代藩主として信昌・信久・信就・信石・信富・信邦と続いていきました。

2代藩主の信昌(1625年~1650年)は甘楽(かんら)郡福島村から小幡への移転を決め、ロケーション、レイアウト、ユーティリティなどのプランを自ら行い、1642年にシビルワークを完了して、小幡陣屋に移転し、そこを小幡藩のセンターといたしました。

あっ、相済みません、次回は外国の方を前に講演をすることになっておりますので、ちょっと外国語が出てしまいました。

こう見えましても、私、家康はグローバルなネームバリューがあるのでございます。

さて、ここで信雄から続く織田家の家系を表にしてみましたので、ご覧頂きたく存じます。

信雄の5男の高長(1590年~1674年)の子どもや、その子孫たちが、直接あるいは養子と言った間接的に織田家を存続させていったのがお分かりになると思います。
小幡藩7代藩主の信邦(1745年~1783年)の時に藩政立て直しをめぐって重臣の間で内紛が起こり、その重臣の一部が、幕政を批判し処罰された尊皇攘夷派の国学者などと関係があったのでございます。

それで、小幡藩の内紛が、幕府の知れるところとなり、信邦は蟄居させられ、信邦の弟の信浮(のぶちか)(1751年~1818年)が跡継ぎとなって、出羽国高畠2万石(山形県東置賜(ひがしおきたま)郡高畠町)へと移されてしまったのでございます。
なお、この時にそれまでの特権も全て剥奪されてしまいまったのでございます。
小幡藩時代の織田家は150年ほど続き、養蚕など産業育成にも力を入れたり、風雅な庭園である楽山園をつくったのでございます。
楽山園という名前の由来は、「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」という論語の故事から名付けられたと言われています。

織田家が高畠、これは下の地図の右下の方にございますが、そこに移った頃の米沢藩は、あの上杉鷹山(1751年~1822年)が治めていた時代でございました。
しかし、高畠は上杉の城下町のような殿様が住む立派なものではなく、石高も低い村々が集まっただけの辺ぴな土地柄でございました。
高畠での織田家は、幕府に家格の復旧や旧領土の小幡への復帰を願う嘆願書を何度も提出する日々が続くばかりで、治世を治めた実績も無かったと言われるほど苦しいものでございました。
1800年には嘆願が一部認められ、高畠よりも北にある村山郡17ヶ村が新たに織田家の領土になり、2万3千石余りとなりました。
しかし、1801年には、凶作により、米の価格が高騰し、山形・天童などで大規模な一揆が起こるなど、どこも不景気のままでございました。
さらに、間が悪いというか、江戸にあった藩の屋敷が火災で焼失したり、1810年には高畠陣屋が失火により全焼してしまったのでございます。
わずか2万石の高畠織田藩には、信長様の時のような織田家の威光は無く、大名とは言えないほど力がなかったのでございます。
高畠織田藩二代目の信(のぶ)美(かず)(1793年~1836年)は、生活が苦しかったので、天童での紅花生産に目をつけました。
紅花は、染料や化粧として使用され『紅一匁(もんめ)は金一匁』と言われるほど貴重で、身分の高い者や裕福な者しか使用が許されなかった高価な染物用の原料だったのでございます。
それで、高畠織田藩は、幕府に対し村山郡にある天童へ居城を移したいと国替えの嘆願書を出し続け、1828年に幕府に認められたのでございます。
高畠から天童への国替を幕府に認められると、天童城の造営が開始されましたが、それは城と言うよりは陣屋の造りでございました。
こうして1831年8月に信美(のぶかず)を初代藩主とする天童織田藩が誕生したのでございます。
しかし、この頃の織田家は、何回も申し上げますが、信長様の時代のような黄金期ではなく、わずか2万石の小藩だったがために財政難に悩まされ続けておりました。
そのため、家臣の給料を借り上げたり、厳しい倹約令を施行するほかに、1855年には紅花の専売制を行なおうとしましたが、藩政改革には失敗してしまったのでございます。
紅花の専売制の過酷さについては、『裸裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果』という民謡まで作られたほどでございました。
天童織田藩は家臣が2百人程しかいない小藩でありましたが、家臣に対しては文武両道でなくてはならないと、苦しい財政状態の中で、学問所と武芸の稽古所である藩校の養正館を1863年に設立しました。
養正館の学長は家老の吉田大八(1831年~1868年)で、この吉田大八は江戸に遊学し、安積(あさか)艮(ごん)斎(さい)(1791年~1861年)に儒学を習っております。
と、いうのが簡単な天童藩の流れでございます、と、終わりたいのですが、明治維新の大きな波を、この小藩も避けるわけには行きませんでした。
それどころか、吉田大八が藩とともに、新政府軍と東北諸藩との間に立ち、大波に飲み込まれていったのでございます。
なお、現在、天童市は日本一の将棋駒の生産地で、約95%が天童市で作られております。これは吉田大八が、天童での人々の生活が苦しいため、救済策として下級武士を米沢藩に送って、将棋駒の制作方法を学ばせ、その技術を天童へ持ち帰り武士に内職として作らせたのが始まりでございます。吉田大八は『将棋の駒作りは武士の面目を傷つけるものではない』と言い切っていたのです。
話はこれからさらに盛り上がっていくところでありますが、この続きは、次回にお話させていただきたく存じます。

つづく

丹羽慎吾

 

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