シンゴ歴史めぐり11 家康のつぶやき ザビエルと対談の巻 その1

米朝     米朝でおます。私も、つい先だって、こっちに来てしもうたんですわ。

そいで、今年が家康さんの没後400年やちゅうことで。何やしらんけど、家康さんとザビエルさんの対談の司会をさせてもらうことになったちゅうわけですねん。私は、まだ、こっちゃに来て間がのうて、東も西もわからへんよってに、私の弟子で、先にこっちに来ておった枝雀にいろいろ教えてもろーとるところですわ。私のことはさておいて、ほな、家康さん、ザビエルさん、よろしゅうお願い申し上げます。

家康     はい、家康でございます。今日はザビエル殿との対談ということで、ちょっと緊張しております。

また、人間国宝の米朝殿がこちらに来ていただきましたので、これからこの世も、より楽しくなるものと思っております。それでは、ザビエル殿、今日はよろしくお願い申し上げます。

ザビエル 家康さん、私はあなたに今まで会ったことはありませんが、私が日本を去ったあと、日本にやってきた後輩たちから、

いろいろと話を聞いております。戦国時代は信長さん、秀吉さん、家康さんとそれぞれ違ったキリスタンへの対応でした。家康さんのあと、お孫さんでしたかがキリスト教を禁止してしまいました。今日は、キリシタンに対して家康さんが、どのように考えていたかを、いろいろと聞きたいと思います。よろしくお願いします。あっ、そういえば、私も日本で400年祭の経験があります。私が日本に来たのが1549年でした。400年後の1949年、昭和24年にザビエル400年祭が15日間にわたり日本全国各地で開催されたのです。その時には、私の右手が展示されたのです。と、いうのは、私の死体はインドのゴアでミイラとなりました。しかし、私はセイントとなりました。そのセイントのミラクルを確認するためにローマから右手を切って送れと命令があり、検査のあと、右手だけはローマで保存されていたのです。

米朝    ザビエルさん、しゃべらはるのが、結構、うもうおすな。

ザビエル はい、私は宣教師ですので、人の前で話すことが仕事なのです。

米朝     え~と、主催者さんの方からは、今日の対談を、大きく三つの時代に分けて話してもらいたいといわれております。

それらは、次の三つでんねん。

           1.ザビエルさんがやってきはってから信長さんのころ

           2.秀吉さんのころ

           3.家康さんのころ

え~、ザビエルさんが日本におらはったんは1549年の8月から1551年の11月までですな。お生まれが1506年ですんで、日本に来られたんは43歳のときでございます。家康さんは、1542年のお生まれですから、その時は、まだ7歳だったんですな。

家康     そうでございます。そのころは私にとって激動の幼児期でございました。

私の生まれました岡崎は、尾張の織田家と、駿府の今川家の勢力の中間地点にあり、父広忠(1526年~1549年)は今川に仕えていました。しかし、私の生母が私一人を生んだあと、母の実家が今川と絶縁し、織田方についてしまいましたので、母は離縁され、他の家に再び嫁いでいきました。そこでは三男三女を生んでおります。彼らが私の異父兄弟になるのでございます。そして、ザビエル殿が日本に来られた前年に、私は駿府に人質となって行く途中で、織田方にさらわれたのでございます。そして、そのあとの人質交換で、私は今度は駿府の人質となったのでございます。その後すぐに、父は戦で亡くなり、私は人質のまま駿府で青年期をすごしたのでございます。それで、最初の妻は今川義元(1519年~1560年)殿の姪で年上のおなごでございました。そして、1549年といえば信長様(1534年~1582年)は、まだ15才で、お父上の信秀様(1510年~1551年)がお亡くなりになる2年前でございます。

ザビエル  実は、私も家康さんと同じような体験をしています。私はザビエル城という城の中で生まれました。

それはスペインとフランスの間にあったピレネー山脈のふもとにあったバスク地方にあったナバラ王国にあったひとつの城です。「あった」が多すぎますネ。日本語は難しいです。

米朝     「あった」を全部「の」に換えれば、よろしいんとちゃいまっか。

ザビエル ありがとうございます。そんな手があったのですね。それで、父はナバラ王国に仕える文官で、

私は家康さんと違って兄二人、姉二人の五人兄妹の末っ子でした。やさしい母に愛情一杯に育ててもらいました。しかし、ナバラ王国はスペインと戦争をして負け、スペイン領となりました。私の兄二人はその戦争で亡くなり、私は家族を支えるために偉くなろうと、パリ大学で学びました。    私は神父になるつもりはありませんでした。が、年上の後輩で元軍人であったロヨラ(1491年~1556年)に強く誘われ、イエズス会に入り、インドなどへ布教の旅に出たのです。

米朝     へぇ~、お二人さんともよう似た幼児体験をお持ちなんでこざいますな。

え~、ザビエルさんはカトリックの司祭さんで、亡くならはってから聖人の仲間に入られて、「インドの使徒」という

聖人名を贈られましたんですな。家康さんも亡くならはってから、東照大権現ちゅう名前をもろて日本の神さんになられましたな。けど、お寺さんでの戒名は「安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」でんな。そういえば、家康さん、おたくの宗派は浄土宗でおましたな。

家康     そうでございます。私は三河の松平家の9代目でございますが、5代目の息子で知恩院        

の25世門主を務めた存牛というものがおります。存牛は私が7歳の時に亡くなっております。で、米朝殿の戒名は何でございますか。

米朝     私の場合は神式でございましてな、仏式でいう戒名はおませんのですわ。     

まあ、戒名に当たるちゅうたら、おくり名でしゃろかな。私の場合は「故中川清大人命(うしのみこと)」ちゅういたってシンプルなもんでございます。本名の中川清に故をつけて「大人の命」を、後付したちゅうもんですわ。

ザビエル その戒名とか、おくり名というものは、カトリックでいう洗礼名みたいなものでしょうか。

米朝     きっとそんなもんと違いましゃろか。          

まあ、世の中にはいろんな宗教がおますが、宗教の違いちゅうもんは、人が死んでから行くあの世がどうなるかによって違いがでてくるとも言われております。そこで、お二人さんの宗教では、あの世がどのようになってるかについてお話してもらえまへんか。あ~、そやそや、お二人さんのお話を聞かせていただく前に、ちょっと私の話を聞いておくんなはれな。私は戦後、上方落語が死んだといわれておった時分に、埋もれていた上方落語の話を集めては、それらを組み立てて行ったんがぎょうさんおましてな。その中のお話で「地獄八景亡者戯」(じごくはっけい  ぼうしゃのたわむれ)ちゅうのがおますのや。江戸落語では「地獄めぐり」ちゅう題がついてますな。鯖であたって死んだ人があの世に行って、閻魔様のところで捌きを受けるまでのことを面白おかしく演じるものでございます。いろんな話をごっちゃ混ぜにして、くっつけた長い話ですんで、ちょっとテレビではやれませなんだが、結構、根強い人気がありましてな、レコードやCDそれにDVDにもなっております。それに落語以外にも、演劇や、さらに絵本にまでなっておりますんや。また、このお話には社会風刺をふんだんに入れることができましてな、私の一門の者がそれぞれに工夫をこらして、それぞれの得意のギャグを入れ、オチをつけて演じておるのでございます。こちらはその地獄八景の本場でございますので、そのうちに、ほんまもんの地獄をみせてもろうて、そして、皆さんの前で新しいギャグを入れてお話させていただきたいと思っとります。えっ、枝雀がもうみなさんにお聞かせしているのでございますか。なんと、あいつは、あの世でやってましたようにハデなアクションで話しておりますのやろな。

ザビエル あの世のことはキリスト教の場合、カトリックとプロテスタントではちょっと違います。

基本的には、人は死ぬと魂が肉体から離れ、良き行いをしたものは天国へ、悪き行いをしたものは地獄へ行きます。そして、ある年月がたつと、キリストが復活し最後の審判を下すのであります。死んだ人間は、そこで最終的に天国と地獄に分けられるのです。  キリスト教では死体は土に埋められます。これはキリストの最後の審判のあとで、天国や地獄に行くときに肉体がなければ困るからです。なお、キリスト教を信じない人はみな最初から地獄に落ちて行きます。

家康     浄土宗の場合は「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)でございます。

人は死ぬと阿弥陀様がお迎えに来られ、西方浄土に連れて行ってもらえるのでございます。しかし、そこに永遠に住めるわけでなく、次に子孫が生まれるとわかると、浄土にいる親戚のみなさんが集まって、誰かを新しく生まれる赤ん坊として、妊娠した子孫の女性の胎内に送り出す訳でございます。よく、おじいちゃんにそっくりですとか、おじさんに瓜二つの子が生まれたという話を聞きますのは、そのためでございます。最近、あの世では遺伝子がどうの、DNAがこうの、と騒がれておりますが、浄土宗では昔からすでに、科学的になされていたのでございます。それで、浄土宗を開いた法然は三度生まれ変わったといっております。一度めはインドに生まれ釈迦の説法を聞く聴衆の一人で、二度目が善導として中国に生まれ、三度目に法然になったのです。真宗の親鸞は自分を妻帯した仏教徒の聖徳太子の生まれ変わりと考えていたようです。

米朝        へぇ~、やっぱり、人は死んで、またこの世に生まれ変ってくるんですな。輪廻転生でんな。   

さて、ザビエルさんは日本に来られる前にインドやインドネシアなどに布教に行っておられます。そんで、マレーシアのマラッカでヤジローちゅう日本人に会うて、一緒に鹿児島に来はったわけですけど、日本に来てどないでしたか。日本にはそれまでは西洋の人はおらへんかったわけやし、キリスト教ちゅうと、仏教とはまったく違うジャンルの宗教やったさかい、そんなんが来たんで、ザビエルさんは布教に困らはったんとちゃいまっか。

ザビエル 私が日本に来るまでの南の国々での布教は、めっちゃ大変でした。

あちらの国では、神様といえば象やライオンやサルやワニなど動物ばかりです。しかし、マラッカでヤジローに会ってびっくりしました。こんな東の端の国で、アジア人と同じような顔をしているのに、きちんと私の話がわかり、正しい質問をしてきたからです。それに、マナー正しく、時間も守り、ポルトガルにも、そんな人間がいなかったのでびっくりしてしまいました。そして、日本に来て、これまたびっくりしました。日本は本当にすばらしい国でした。人々はキュウリアサティ、好奇心というのですか、それが強く、何でも知りたがりました。キリスト教が自分たちの宗教よりもすぐれていると思うとキリスト教に入りしました。サムライのランクの高い人はセックスに対してルーズで、奥さんが何人もいたり、男同士で愛し合ったりていましたが、一般の人たちはまじめな人が多かったのです。  布教はそんなに難しくなかったです。日本には仏教が天竺と呼ばれたインドから、唐と呼ばれた中国を通って入って来ていたので、私たちのキリスト教も天竺から来た仏教のひとつと思われました。よく、日本の宗教は多神教と言いますが、浄土宗にしても、日蓮宗にしても、阿弥陀や日蓮という一神教に近いです。それほど違いがありません。また、私たちバスクやポルトガルの人間は髪も黒かったです。図体もそんなに大きくなかったので、日本人にも親しみやすかったのです。なお、私たちは南蛮人と呼ばれましたが、後から来たオランダ人やイギリス人は髪が赤かったので紅毛人と呼ばれました。

米朝     浄土宗も浄土真宗も一神教であるというのは、おもろいお考えですな。

それでは、家康さんにお聞きします。家康さんは今川から岡崎に戻ったころに、浄土真宗の皆さんと戦っておられますな。同じ阿弥陀を本尊としてはるのにどうして、お互いに血を血で洗うような戦いをしたんでっか。

家康     それは、ヨーロッパで言いますと、同じキリスト教なのに、どうして戦争をしたのかというようなものでございませんか。

中東のイスラム国同士も、神様はアラーの神で同じございますが、お互いに戦争ぱかりしておりますでしょう。浄土宗も浄土真宗も御本尊は同じ阿弥陀様ではありますが、戦国時代には宗教の違いというよりも、政治的違いを反映していたのでございます。     真宗は一向宗とも申しまして、強い団結力を持ち、寺内町とも呼ばれる守護不入の自治の町を築いたりしていたのでございます。これは為政者にとっては面倒な存在でございました。そして、一向一揆の始まりは1466年の近江での戦いが始まりでございます。それから、1488年に富樫氏を倒し90年余り続いた加賀一揆があり、1570年から10年ほど信長様を悩ましました石山合戦がございました。他にも長島一揆などもございます。1563年に起きました三河一向一揆もそれらと同じように歴史の一コマに残っております。 なお、この三河一向一揆は私の一生における三大危機のひとつでございます。

残りの二つの危機と申しますのは、武田軍に攻められた「三方が原の敗北」と本能寺の変のときの「伊賀越え」でございます。    しかし、私はこれらの危機のなかから多くのものを学んだのでございますよ。

米朝     今お話にでました信長さんはバテレンに何回もお会いになっています。

え~と、データをみますと、信長さんが京都に上られた1568年から、本能寺で亡くなられた1582年の14年間で、京都で15回、安土で12回、岐阜で4回、つまり記録にあるだけでも31回ほどバテレンの方々に会っておられます。それだけ信長さんはバテレンを好きだったということでしょうね。その中でも日本史を書かはったフロイスさんには18回以上も会うておられます。

家康     ほう、そのような記録があるのでございますか。私も宣教師には何回もあっております。

ザビエル 信長さんはキリシタンを大変歓迎していました。

われわれが本国から遠眼鏡や地球儀などいろんなものをお土産に持っていったものですから、それらに興味を示しました。 また、信長さんは私たちイエズス会がお金をほしがらないで、貧しい人たちに施しをしていたのをすばらしいことだと言っていました。それで、信長さんには日本のあちこちに教会や神学校を建てる許可をもらいました。

家康    はい、信長様は古い慣習などがお嫌いなお方でした。

それに、お若い時は、かぶき者といって異様な風体をしたり、常識にとらわれない考えをされていたのでございます。それで西洋から文物に興味を示されたのではないでしょうか。       けれども、信長様も含めて私ども戦国の武士は、あまり教養がありませんでした。文字はある程度、書くことが出来たのでございますが、幕末の志士のように漢詩が書けるものは、まずおりませんでした。それができましたのは戦国武将では越後の上杉謙信様(1530年~1578年)くらいでしょうか。織田五人衆のうちでも、教養を持っておられてのは光秀様(1528年~1582年)だけでございましょう。    御主人の信長様も、ただ「人間五十年・・・・・・」といって体を動かすことは上手な方でございました。そういえば、信長様のかぶき仲間の加賀の前田利家様(1538年~1599年)は晩年に「論語」をお聞きになり、「世の中にそんなに面白いものがあったのか」と他の大名に勧めていたとも聞いております。秀吉様はご存知のようにお侍の出ではありません。えらくなられてから勉強はされたようです。私の場合は、人質で過ごした場所が駿府の守護の今川でございました。文化の度合いが尾張や三河とは雲泥の差がございました。人質とは言え、駿府では一通りの読み書きは教えてもらいました。中でも、戦国武将ではありながら、臨済寺という寺の住職であった太原雪斎(1496年~1555年)殿に筆を取って直接教えていただいたこともあります。

ザビエル  私も日本に来て薩摩、平戸、山口、そして堺と京を回りました。

一番多く居たのは山口です。大名の皆さんは島津、大内、大友のみなさんです。  みなさん守護大名といって、昔からの名のあるおうちの方々で、文化は高かったです。

家康     戦国大名は名門が少ないのです。

信長様のおうちは守護代ですし、わが松平家も三河の山奥出身の山賊みたいなものですし、秀吉様にいたっては農民のご出身でしたからね。

ザビエル 私の会った大名たちはキリスト教というよりも、私たちが仲立ちするポルトガル貿易に興味を持っていました。

本当に神を信じてキリシタンになった人たちは少なかったです。  でも、信仰を捨てないで、大名を捨てた高山右近(1552年~1615年)殿は立派です。秀吉さんに止めろいわれても止めないで、お城を取り上げられ、前田様のもとで保護されました。最後には家康様の追放令が出て、マニラに家族で行き、そこで亡くなりました。

米朝   お二人のお話が尽きないようですが、ここで「その1」の対談を終わらせてもらい、休憩とさせていただきます。

休憩のあとは、「その2 秀吉さんのころ」のキリシタンについてお話してもらいます。秀吉さんは朝鮮出兵、刀狩、キリシタンの処刑などあります。その背景はどんなんでしたんやろな。お二人からつっこんだお話をしてもらいたいと思います。はい。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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