シンゴ歴史めぐり14 家康のつぶやき 三英傑と天皇の巻 後編 (2015年7月記)

はい、みなさん、家康でございます。この前の会合で、私が孫娘を天皇家に嫁に出したではないかと言われました。その通りなのでございます。

それは秀忠とお江の間に生まれました徳川和子(かずこ、宮廷読みは「まさこ」)でございます。

そして、その和子が生んだ娘が、明正(めいしょう)天皇になったのでございます。

和子を天皇の正室(中宮)にし、なした子を天皇の位につけ、外戚の祖父として天皇家を支配することは、私の最終の仕掛けでございました。

それは、着々とおこなって参りました私の日本支配構想がここに凝縮されているのでございます。

今日はそのあたりを、いつもよりたっぷりと聞いていただければと存じます。

 

それでは、始めます。まず、秀忠とお江の間に生まれた7人の子供たちでございます。

千姫(1597年生)はご存知のように豊臣秀頼に嫁がせ、大阪の陣のあと本多忠刻(ただとき)に嫁がせました。忠刻は若いときから私に仕えた徳川四天王のひとりの平八郎忠勝の孫でございます。

珠姫(1599年生)は前田利家様の子で加賀藩第二代藩主の利常に嫁がせました。利常の母親は正室の松殿ではなく、側室の寿福院でございます。この母親同士は実に仲が悪うございました。

勝姫(1601年)は私の次男の結城秀康の子の松平忠直に嫁がせました。伯父と姪の結婚になりますね。忠直について皆様は「忠直卿行状紀」などでその素行はご存知のことと思います。

初姫(1602年)はお江の姉の初が嫁いだ京極高次の子に嫁がせました。京極家は北近江の守護であった名門で、本来はお江や初の生まれた浅井家の主筋にあたるのでございます。正室である初に子がなく、側室の子の忠高が長男であったので、初からの強い要望で初姫を初の養女にし、忠高と夫婦にして、徳川家との関係強化と初の京極家での立場を安泰にさせる意味がございました。

家光(1604年生)については、皆様ご存知と思いますので、省略させて頂きます。

忠長(1606年生)には駿府城を任せましたが、兄家光との折り合いが悪く叔父の忠直同様の行いがありました。

それにしてもお江は毎年のようにたくさんの子をなしているのでございますね。

なお、保科正之(1611年生)は秀忠がお江の目を盗んでこさえた唯一例外の側室の子なのですが、家光やその子の四代将軍の家綱などをよく助け、また、後世に名を残す優秀な孫でございました。

そして、私の話は秀吉様が1590年に小田原の北条氏を滅ぼしたときまで遡ります。

ある夕方に、秀吉様に小高い丘の上に行こうと誘われて登り、ふもとを眺めながら、良くぞ男にうまれけりと、一緒に放尿をしていたときに、秀吉様は私に東海の領土を手放して、江戸に行ってくれと世間話をするように話されました。当時の私と秀吉様との力の関係上、私はノーと申し上げる訳にはいませんでした。かしこまりましたとお答えしました。

そして、大阪に戻られると、秀吉様は、東からの徳川の脅威をなくし、安心して大阪で采配をふるっておられました。

しかし、私の目には秀吉様のやっておられることには老いというか、あせりが見受けられました。

私は近いうちに徳川の世の中がやってくるに違いないことを感じとり、そのためにどうすればよいかと、江戸に移ってから、湿地帯の原野を人々の住める町に作り変えながら日々考えておりました。

 

私はそれまでの経験から、すべてのものが崩壊するのは内部からであることがわかっておりました。つまり、それはなぜローマ帝国が滅んだか・・・・・・すみません、最近は話が飛んでどうもいけません。

でも、現在ではギリシャに次いで、中国もなにかあぶのうございませんか。

それに、我が国も、でしょうか。すみません、またまた話が飛びました。

 

それで、私は第一に身内の強化、そして、戦相手を滅ぼし、次に日本の天皇を含めた宗教勢力を味方に付け、日本をコントロールすることが目標であると考えたのでございます。

まず身内の強化ですが、当時の私の身内といいましても、三河から連れてまいりました剛直でくそまじめなものたちを中心に、武田家、今川家、北条家などから中途採用したものたちの集まりでございました。

それで、まず私は内部組織を強固にするためには、どうすべきかと、どのようにしたら人は動くのかなどを考え、外様、譜代、親藩の各大名体制、御三家などという徳川遺伝子供給システムや、それらの運用、役割などの青写真を練っておりました。

 

次に戦相手、これは豊臣方のことでございますが、それは考える必要がございませんでした。

秀吉様が亡くなり朝鮮出兵から、各部隊が日本に戻ってまいりますと、それこそ、内部からひとりでに崩れていったのでございます。

 

そもそも、秀吉様は信長様の後を継いだとはいえ、ご出身がご出身だけに、武家の棟梁である征夷大将軍になることはできませんでした。

しかし、さすが秀吉様です。誰もが考えなかった突飛な方法を考えられたのでございます。

信長様がお亡くなりになって三年後の1585年に近衛家の養子となり関白という位につき、翌年、太政大臣となられたのです。公家の棟梁になり、国の舵取りを行おうとするものでした。

1591年には甥の秀次に関白職を譲り、前関白の名称である太閤と呼ばれるようになりました。

しかし、1593年に秀頼が生まれると、秀次は関白の座を奪われるのではないかと、情緒不安定となり、乱行が続き、1595年に謀反の疑いありとして高野山に追いやられて自害させられました。

そして、秀吉様は私や利家様を五大老、三成たちを五奉行にして、秀頼が大きくなるまでの後継者として協力を求めてこられたのでございます。

そして、私に大阪城で政務を、利家様には伏見城で秀頼の面倒をみるようにとのことでした。

私は伏見城で政務の面倒をみたことが、あとあとの政権運営上で大きな財産になりました。

 

そうしているうちに秀吉様は1598年に伏見城でお亡くなりになりました。

翌年、その後を追うように利家様が亡くなられると、私は最長老でしたので、秀吉様代行といった形で運営を任されたのでございます。

秀吉様はご出身が信長様や私と違っておりましたので、信頼できる家老職がおらず、外部からの大老職に頼るしか方法がなかったのでございます。

それで、私はまず交戦中の朝鮮に秀吉様の死を知らせることなく兵を引き上げさせました。

そのころの西国の大名たちは朝鮮出兵で負担が大きくなり、不満が溜まっていたのでございます。

すると、豊臣家の内部対立が明確になって来たのでございます。

それを分かり易く現代風に会社に例えていいますと、豊臣商事で海外の現場で苦労して来た加藤グループと国内の管理部門で秘書役だった石田グループで社内闘争が勃発したのです。

これが、先ほど申しました、私が何もしないでもひとりでに壊れていったということでございます。

やはり豊臣家の組織も内部から崩壊していったのでございます。

 

両グループをまとめていた利家様が亡くなると、私は豊臣家臣団の仲間割れを利用して二年後の関が原を勝利に導いたのでございます。

秀吉様は亡くなる前に、大老と奉行の許可なく大名同士の縁組を禁じていたのでございますが、私はそれを無視してどんどん行っていきました。

私の孫や親戚と伊達、福島、蜂須賀、そして加藤を組み合わせたのでございます。

また、加藤、福島、浅野たちが三成暗殺未遂事件を起こしたときも、私は彼らを諭すなど、いかにも秀吉様を敬うように見せかけ、面倒をみてやりました。

 

さらに、私は秀吉様の未亡人の北政所様を味方にすべく、せっせと京まで通いました。

と、いいますのは、豊臣家の家臣たちは、秀吉様の生まれた尾張出身者と秀吉様が初めて城をもった長浜の近江出身者の二大グループに分かれていたからでございます。

その尾張出身の中心が北政所様であり、近江出身の中心は淀殿でありました。

なぜなら、淀殿は北近江の城主であった浅井長政の長女だったからでございます。

淀殿グループは石田を中心とした大谷吉継、増田長盛、小西行長、中村一氏などでございます。

関が原の勝利は詰まるところ、我が東軍に豊臣家の家臣であった加藤、福島、細川などがついてくれ、また織田家の元家臣たちも東軍に参加してくれましたので、西軍を討つことができたのでございます。三河軍団だけではとても勝利はおぼつかなかったことと思います。

 

ましてや大軍をまかせた秀忠が中山道の上田で真田勢に苦戦し、戦場に駆けつけられないという、恐ろしい状況になっていたのでございます。

しかし、その秀忠の苦戦を、後世になって、私が関が原で負けて、中山道を逃げ帰るために、わざと上田でマゴマゴしていたとまことにうがった見方をする人もございました。

皆様はこの関が原に東軍が勝利して私の政権が確立したと思われる方々が多いのですが、全く違うのでございます。まだまだ油断ができませんでした。

大阪には秀頼という、秀吉様の跡取りがいたからでございます。

いえ、怖いのはその秀頼でなく、関が原で私に味方してくれた豊臣家臣団でございました。

それで彼らには思い切った領土を与えたりして懐柔したのでございます。

 

そして、その間にも、私は宗教および天皇を幕府の支配化におく算段をしていたのでございます。

秀吉様は先ほども述べましたように朝廷の権威を利用して国を治めようとされていました。

源平藤橘という由緒ある公家の名字のほかに豊臣という名字を賜り使用されていました。

そのため朝廷は豊臣家から手厚い保護をうけていたのでございます。

また、私の征夷大将軍という位は天皇からいただいたものです。

その天皇家という政治、宗教のトップを、コントロール下に置くようにすることは並大抵のことではないことはご理解いただけると思います。

でも、私は着々と手を打っていたのでございます。

 

それではここで、当時の天皇たちについてご説明します。

これではよく理解できないと思いますので年代と、関係者、出来事と一緒に表すと次のとおりです。

後奈良天皇の在位は1526年から1557年で、下克上の真っ只中でございました。
応仁の乱のあと京は焼かれたままで、住む御所も壊れたままでした。天皇の権威も廃れておりました。それで、この後奈良天皇は歴史上一番貧しい天皇といわれています。
天皇の位についてもお金がなく即位の礼をするまでに10年かかった天皇でございます。

次の正親町天皇(1517年~1593年、在位1557年~1586年)も毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられませんでした。
この正親町天皇には本願寺も莫大な献金を行ない、顕如は門跡の称号を与えられております。1568年の信長様の上洛は、この正親町天皇をお守りするという大義名分でございました。
この信長様の上洛によって、皇室の危機的貧困に変化が訪れ、信長様は、困っていた朝廷の財政を様々な政策やご自身の援助により回復させたのでございます。
一方で、信長様は天皇の権威を利用し、敵対勢力に対し、何回も講和の勅命を実現させたのでございます。それらは1570年の朝倉義景・浅井長政との戦いであり、1573年の足利義昭との戦いであり、1580年の石山本願寺との戦いにおける講和でございました。
いずれも正親町天皇の勅命によるものでございます。
しかし、信長様は正親町天皇を1573年頃から遠ざけるようになり、嫡子の誠仁(さねひと)親王を早く天皇にすることで、より朝廷の権威を利用しやすいものにしようとされていました。
しかし、正親町天皇はそれを最後まで拒んだのでございます。それが本能寺の変に関する一説として朝廷関与説が浮上するのも、このような事情によるものでございます。

結局、正親町天皇は秀吉様に政権が移ったのちの1586年に子の誠仁親王が譲位を前にして亡くなってしまいましたので、孫の和仁親王、後の後陽成天皇に譲位されました。
この後陽成天皇(1571年~1617年)の在位期間は、1586年から1611年と、ちょうど秀吉様の天下統一と私の江戸幕府にまたがっているのでございます。

秀吉様は後陽成天皇に天皇領や黄金を献上し政権の後ろ楯とされました。
当時、秀吉様は朝鮮を日本の領土にした後は、明を征服し、そこに天皇を明に移すご計画を話しておられました。しかし、計画は実現することなく秀吉様は亡くなってしまわれました。
そして、関ヶ原の戦いの後の1603年に私を征夷大将軍に任じられたのも、この後陽成天皇でございます。それによって私は江戸幕府を開くことができたのでございます。

しかし、後陽成天皇は1611年に、嫡子の後水尾天皇に譲位しました。
さて、みなさん、今、その時がやってまいりました。その時、歴史が動いたのでございます
あっ、NHKの歴史番組のパクリで済みません。
私好きだったんです、あの番組、もうやっていないのですかね。
あの司会の松平アナウンサーは私の母、於大の再婚相手の久松俊勝の4男定勝が先祖なのですよ。ですから定和と名乗っているのでございます。伊予松山藩主の分家でございます。
また「ちょっとキザですが」の磯村尚徳は定和の叔母の子で、二人はいとこ同士になるんですよ。

失礼しました。私の最後の仕上げの話しでございましたね。
1611年には、大阪の豊臣家がまだ存続をしていました。
後水尾天皇が即位すると同時に、私は早速に秀忠とお江の娘の和子の入内(じゅだい)を申し入れたのでございます。和子はまだ6歳でございました。
当時朝廷にも私に反対できる勢力はございませんでした。
私はすでに70才になっており、将軍職も秀忠に譲り、駿河に隠居しておりました。
そして、1614年4月にやっと入内の許可が下りました。そして、また、その時がやって参ったのございます。ちょっとくどいですか。私は豊臣家の旧臣の大半を我が方につけ、天皇も親戚になったので、早速、大阪で冬と夏の戦いを行い、完全に豊臣家を滅ぼすことができたのでございます。

そして、磐石な徳川家できると思って安心したためか、戦いが終わると1616年にこちらに来てしまったのでございます。
人間というものは、何か目標がないと長生きができませんね。

しかし、大阪の戦いや、私が亡くなったことで、和子の入内そのものは遅れてしまいました。さらに、翌年には先帝である後陽成院が亡くなるなど、なんやかんやで、和子の入内は、またまた延期されたのでございます。
そして、そうこうするうちの1618年に水尾天皇と女官との間に皇子・皇女が居たことがわかったのでございます。
それを知った和子の父の秀忠は朝廷に対しカチンと来てしまったのでございます。
翌1619年には秀忠自身が上洛して、その問題となった女官の振る舞いは宮中における不行跡であるとして関係者を排斥するとともに、和子の入内を急がせたのでございます。
すると、今度は後水尾天皇がカチンと来て朕(ちん)は退位すると言い出しました。
今も昔も、庶民も天皇も若者は切れるのが早いものでございますね。
天皇にしてみれば、幕府も側室はたくさんいるではないかというのが言い分でございました。
たしかに歴代の将軍には多くの側室がおりました。現に私などは・・・・・・ゴホン。
しかし、タイミングが良くありませんでした、なんせ秀忠の嫁はあのお江でございましたからね。
秀忠は六つも年上のお江には頭があがらず、浮気ひとつ出来なかったのでございます。
いや、わずか一回ございました、それがあの保科正之でございます。これはここでは省略します。

話を戻します。和子の入内は私が遺言のようにして秀忠に伝えておりましたので、秀忠は津藩主の藤堂高虎を京に派遣して問題の女官の追放・出家を強要しました。
そして天皇に近い公家に対して高虎は「後鳥羽上皇たちが隠岐の島に移された例があるんだよ」と口調はやさしく、中身はきつく恫喝したのでございます。
さらに、高虎は「その時は自分も腹を切るからね、それは君たちが、どうなるかってことはわかってるよね」と付け加えるのを忘れませんでした。
これには天皇や公家も、返答することができず、一旦は静かになりました。

そして、1620年にやっと念願の和子の腰入れができたのでございます。
嫁ぐ和子は14歳、迎える天皇は26歳でございました。
なお、和子は濁音を嫌う宮廷の風習に倣い「かずこ」から「まさこ」と読みを換えました。
えっ、なぜ、私がもっと早くから朝廷、いや天皇への手を打たなかったのですかって、やはりそう思われますか。それと同じことをいった男がおりました。それは天台宗の天海でございます。
その時にも藤堂高虎が出てまいります。
大阪の陣の直後に二人が天皇をどうするかについて討論したのでございます。
天海 天皇や貴族は伊勢に移して、伊勢神宮の神主にしてしまえば、家康様の地位は君主同 様になるでしょう
高虎 いいや、将軍は天皇、朝廷を支えてこそ天下の諸大名が従い、民も敬うのです。
その天皇をないが しろにしたら、諸大名が武力に訴えて蜂起して、また乱世に戻るでしょう
私はそれを聞いて、高虎を大いにほめてやりました。
なお、この高虎は「七たび主家を変えねば一人前の武士とはいえぬ」といった戦国末期の典型的な武士でございました。近江の浅井家家臣の家に生まれ、主家を転々とし、秀吉様に仕え、亡くなる直前から私めに擦り寄って来た男でございます。この男についてもいろいろ話したいのでございますが、また別の機会にさせて頂きます。ただ、子孫は鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の先鋒として京都に向かって進み、山崎の台地に砲台陣地を築き官軍と対峙したのでございますが、一夜にして官軍に寝返り、味方だった会津兵、新選組、幕府の歩兵たちの頭上に砲弾をあびせかけ、我が徳川家を敗戦に導いてしました。ですから、当時、敵味方から「藩祖高虎の人柄が藩風にしみこんでいる」といわれたものでございました。

すみません、またまた、話が飛んでしまいました。
というわけで、私は、和子を入内させ、男の子が生まれたら外祖父として、朝廷をコントロールするという、オーソドックスな方法を取ったのでございます。
これは古くは葛城氏、蘇我氏、そして、藤原氏が延々と取ってきた方法なのでございます。

しかし、私はもうひとつ手を打っておりました。それは法度、ルールなのでございます
幕府が朝廷を規制するルールなど言うものは日本史上ございませんでした。
でも、私は考え、実行したのでございます。画期的とはこのことを申すのではないでしょうか。
それは1613年の「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」でございます。
そして、豊臣家滅亡後の1615年9月には「武家諸法度」を出したあとに「禁中並公家諸法度」を公布したのでございます。
それに加え、朝廷の行動を監督するものとして京都所司代を幕府の下に置きました。
そして朝廷がいままで行っていた数々の承認も摂政・関白がまず会議を開き、その決定は武家伝奏を通じて幕府の承諾を得た上で、初めて施行できる体制へとさせたのでございます。
そして、和子ですが、天皇との仲もよく、1623年11月に長女、興子(おきこ)が誕生したのでございます。1625年には二人目の女子が生まれました。
1626年に和子は男の子を出産しましたが、翌年亡くなりました。
また、その年にも次男も誕生したのです誕生直後に亡くなっております。
この辺の事情については詳しくは申し上げません。
しかし、簡単に言えば、いつぞやこの会合で、将軍の正室ということで数回に分けてお話したことの逆バージョンでございます。
また、後水尾天皇も上皇になる前は側室も大勢いたのですが、生まれたのは和子の子ばかり5人でした。しかし、譲位後は側室から22名の子をなしているのです。
賢明な皆様であれば、何が起こっていたかがお分かりになると思います。
そして、1627年に、あの紫衣(しえ)事件が発生し、それに関連し二年後に後水尾天皇は突然、和子との間にできた興子に天皇を譲ったのでございます。
明正天皇の誕生でございます。わずか6歳でございました。
なお、その譲位をした時の後水尾天皇の歌が残っております。
「葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
なんか、やけくそというか、強烈な幕府批判というか、そんなものを私は感じる次第です。

なお、紫衣とは、古くから宗派を問わず高徳の僧や天に朝廷から下される紫色の法衣や袈裟のことでございます。それは朝廷にとっては収入源の一つでもありました。
しかし先ほどの1613年の「勅許紫衣法度」で幕府が紫衣の授与を規制していたにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府の許可なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていたのでございます。
これを知った家光は事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代を通じて法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのでございます。

紫衣事件につきましては、幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺、妙心寺の大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出してきました。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明確にしたという意味もございます、これは、もともと朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味しているのでございます

さて、和子の娘の興子が、明正天皇になったことより、称徳天皇以来859年ぶりの女帝が誕生したのでございます。明正という送り名は奈良時代の女帝である43代元明天皇と、44代元正天皇の明と正を組み合わせたものでございます。江戸時代のあとの明治、大正も明と正の字が使われておりますが、これは関係ないのでございましょうか。
譲位しました後水尾上皇は、以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として、しっかり院政を行いました。
1678年6月に和子は72歳でなくなりました。天皇家のお寺である京都の泉涌寺に葬られました。
結局和子からの遺伝子は天皇家に繋がらず、それっきりとなり、先回お話したように、江戸幕府の末期になって、天皇家に顔をだしてくるのでございます。

最後に一言申し上げます。江戸時代は徳川の世とよく言われますが、君主は天皇でございました。幕府はそれを十分に認識しておりました。
その証拠に幕府は外交文書に将軍を決して「国王」とは名乗りませんでした。
たとえば、私はたくさんの書簡を東南アジアに出しましたが、署名は「日本国征夷大将軍 源家康」であり、息子の忠秀も朝鮮通信使からの国書に「朝鮮国王」から「日本国王」へと書いてありましたが、その返書には「日本国源秀忠」から「朝鮮国王」あてでございました。
家光以降は日本国大君とか使っており、6代将軍家宣のころに新井白石の提案で「国王」を使ったこともありましたが、非難を受けて「大君」に戻しております。
このことが、我々将軍が決して日本の君主であるとは考えていなかった証拠でございます。

人間を含む動植物の行動は本当に遺伝子の仕組んだものでございましょうか。
私の意図した遺伝子はたち消えとなり、そうでない遺伝子が形を変えて江戸時代を生き抜き、明治となり天下を取ることになりました。
それことが遺伝子の陰謀だったのでございましょうか。
どうもご清聴ありがとうございました。

参考図書:「日本の10大天皇」  高森明勅(あきのり) 著 幻冬舎新書
       「関が原」(上)  司馬遼太郎 著  新潮文庫

 

つづく

丹羽慎吾

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Optionally add an image (JPEG only)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください