シンゴ歴史めぐり13 家康のつぶやき 三英傑と天皇の巻 中編 (2015年7月記)

前回は信長様の次男の信雄の四男信良から転々として仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→今上天皇へと移ってきた遺伝子についてお話いたしました。

ちょっと話がややこしくて、分かりにくかったかと存じます。

 

本日は織田信雄の五男の高長の系列から大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)を経由していった遺伝子について、まずお話をさせて頂きます。

そして、そのあとに信長様の姪のお江、秀吉様の甥の秀勝、そして私の子供たちから渡って行き、大正天皇の皇后で、昭和天皇の母となる九条節子(さだこ)に至るまでの遺伝子のお話をさせていただきます。

 

はい、信長様の孫の遺伝子第二弾の流れは次のようになっております。

織田信長→織田信雄→織田高長→織田長頼→織田信武→織田信休→娘→柳原紀光→

柳原均光→柳原隆光→柳原光愛(みつなる)→柳原愛子→大正天皇→昭和天皇→今上天皇

この書き方では分かりつらいと思いますのでちょっと見やすくしてみます。

左側に前回お話ししました勧修寺経逸(つねはや)と池田数計子(かづこ?)を追記してみました。

               

この信長様の第二ルートは織田家から柳原家へとすっきりとしていますね。

さて、信長様の次男信雄の大和の所領の方は五男の高長が受け継ぎました。

その後、三代長頼→四代信武→五代信休と続き、信休の娘が公家で藤原北家支流の柳原家に嫁ぎました。そして、その子の紀光のひ孫の光愛(みつなる)の娘が柳原愛子(なるこ)でございます。

明治天皇の正室は一条美子(はる)、つまり昭憲皇太后でございますが、お子さんはございません。

また、側室との間に男5人、女10人のお子たちがおられますが、成人した男子は大正天皇ただ

一人でございます。

 

さて、話は織田家にもどりまして、順調に相続したように見えます大和の織田家にも、四代信武のときに宇陀崩れというお家騒動が起こっているのでございます。

それは信武の父の長頼が彼の弟の長政に領地を分け与えたため、息子の信武の代になって藩政が窮乏し、その打開策をめぐって重臣たちが対立し、1694年に信武は創業以来の重臣の子孫たちを討ち果たして、自らも自害を遂げたという事件でございます。信武の幼名は乱麻呂といいます。

このような事件が起きたため宇陀松山藩は廃藩となったのでございますが、信武の子の信休は信長様の血統であるということが尊重されて、翌年、丹波国氷上郡柏原藩2万石に減封のうえ国替となったのでございます。

その信休の娘が嫁ぎました柳原家は鎌倉時代末期に創設された由緒ある公家でございます。

最も重要な所領のある因幡国法美郡にて公家には珍しく、直接所領の経営を行っておりました。

江戸時代は天皇と公家の間の連絡をおこなう議奏とか、幕府との間の連絡役である武家伝奏をつとめており、摂政関白に次いで活躍する家系でございました。

その柳原家は、代々文学、文筆を家業としておりました。

織田家との間に生まれた紀光は『続史愚抄』という歴史書を著しております。

これは第90代亀山天皇(在位1260年~1274年)から第 118代後桃園天皇の天皇 (在位1771~1779) まで520年間の天皇のことを書いた貴重な資料となっております。

さらに、柳原家は幕末から明治維新にかけて人材を輩出し、柳原光愛(みつなる)は権中納言、議奏となり、国事に奔走しました。

その光愛の次女の愛子(なるこ)が明治天皇に典侍として仕え、大正天皇の生母となったのでございます。

また、光愛の子で、愛子の兄の前光(さきみつ)は、西園寺公望(さいおんじ きんもち)とともに少壮公家中の逸材と言われ、戊辰戦争では東海道鎮撫副総督を務めました。

前光は明治維新後に外務省に入り、外務大丞、清国公使、ロシア公使、元老院議長、枢密顧問官、宮中顧問官を歴任し、伯爵になっております。

その光愛の長女の信子は歌道で有名な冷泉家の支流にあたる入江家に嫁にいき、生まれた子が入江相政でございます。昭和天皇の侍従長となり「入江相政日記」で有名となりました。

この日記は1935年1月1日に相政の母信子の勧めで付け始めたものでございます。

その日記には、それ以後、相政の亡くなる前日、1985年9月28日まで半世紀にわたって付けられ、昭和天皇が崩御した後の1990年に『入江相政日記』として公刊されました。

戦前戦後を通じて昭和天皇の側に仕えた者から見た歴史の一面を伝える貴重な史料となったのでございます。そして入江相政の祖父と昭和天皇の祖母が兄妹でございますから相政は昭和天皇と「はとこ」の関係になるのでございます。

また、前光の妾のひとりで没落士族の娘で柳橋の芸者から生まれた燁子(あきこ)は白蓮事件を引き起こした歌人・柳原白蓮でございます。

明治期に柳原家一家は東京に移住し、空き家となった京都の邸宅は同志社女学校の学舎として利用されました。その柳原一族の系図を簡単に示すと次のとおりでございます。

             

さて、ここで、余談でありますが、私が遺伝子と申しているものは日本では昔から血で表現されております家代々の血統とか、血筋とか言われるものでございます。

その遺伝子については英国の動物行動学の生物学者リチャード・ドーキンス博士(1942年~)の「利己的な遺伝子」が有名でございますね。

私は遺伝子の話になりますと、DNAとか染色体とかいう言葉が出てきて参ってしまいます。

これらは何かとある人に聞きましたら、昔のカセットテープかビデオテープを想像すればよいとのことでした。

染色体が外側のケース、DNAが中のテープ、そして遺伝子が書き込まれた音や映像のデータというようなものだというのでございます。

そして、そのDNAはスピーカーの左右の音のコードように二本のコードが一本のようになっているとのことであります。

お聞きしますと、ヒトの体は、およそ60兆個の細胞から構成されておるそうでありますね。

その細胞1個1個に核があり、その核の中に両親から由来する二本の染色体が存在しており、染色体は23対で46本あり、そのうち一対は男女を決める性染色体とのことでございます。

そして、卵子と精子は分裂した一本のDNAを持つ単細胞で、それが受精して、また染色体が二本一組となり細胞分裂を繰り返して、肉体が出来ていくのだそうでございます。

その染色体は親から子へ、子から孫へとデジタル的に組み合わされてコピーされていくもので、自分の過去と未来を決定付けるものであるとのことでございます。その遺伝子というか、染色体にはほとんどすべての遺伝情報が盛り込まれているそうであります。

ですから、我々の体というものはこの遺伝子を伝えていく乗り物であり、そのために遺伝子が肉体(親)から肉体(子)へと移っていくためにいろんな行動を取るというのでございます。
この遺伝子は人間だけでなく、あらゆる動物、植物にもあるそうでございます。

その遺伝子の行動というものは、たとえば、ミツバチの働きバチなどはせっせと働くだけで、子供つくりは女王バチに任せております、なぜでございましょうか。

働きバチにとりまして、この行動にどのような自己の利益があるのでございましょうか。

しかし、遺伝子の立場からみますと簡単に説明できるのでございます。

それは働きバチには母親の手助け行動をとらせる遺伝子があり、働きバチ自身が子バチを作って50%だけ自分の遺伝子を持った子バチを作るよりも、女王バチの繁殖を助けて75%の共通遺伝子を持つ妹を育てることが、遺伝子のコピーを効率的に増やすことになるのであります。

つまり働きバチの個体としての遺伝子は、自分は生き延びることはできませんが、兄弟の中にある同じ遺伝子の利益に貢献しているのでございます。

これはダーウィンの進化論を逆から考え、「動物や植物などの個体は遺伝子が繁殖するための機械」と定義し、「運命は本人が選択したものでなくても、体格、顔つき、髪の色まで、DNAによって規定される。持って生まれた身体的特徴の多くは、DNAが決めている。」「我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ」と言い切っているのです。

すみません、これ以上のことはよくわかりません。

 

それでは、次は信長様、秀吉様からの遺伝子と、私の三男で二代将軍秀忠、そして、九男で尾張徳川家の義直からの遺伝子が藤原家の人々を介して大正天皇の皇后の貞明皇后である九条貞子に忍びこんでいったお話をさせていただきます。

                                        

まずは、秀吉様の母上の大政所様からとお江のお話をしなければなりません。

秀吉様のお母様である大政所様は、まだ尾張の百姓時代に、最初の夫である弥右衛門との間に秀吉様と姉の日秀を産み、二番目の竹阿弥との間に秀長様たちを産んでおられます。

 

そして話は飛んでお江です。

私はこのおなごほど戦国の世の荒波を受けたものがないと思います。

お江は、信長様の妹のお市様と浅井長政様との間で三女として生まれ、父長政が信長様に自害させられると、母子ともども織田家に引き取られました。

そして、1582年に今度は伯父の信長様が光秀様に本能寺で討たれました。

その光秀をすぐに討った秀吉様が翌年、清須城において信長様の後を継ぐと、母のお市様は娘三人をつれて織田家宿老の柴田勝家様に再婚して行きました。

しかし、秀吉様が義父の柴田様を攻め、柴田様がお市様ともども自害されると、三姉妹は秀吉様の庇護のもとに入りました。父、母、伯父、義父をすべて戦争で失っているのでございます。

秀吉様は長女茶々を側室にされ、お江は、今までも私の話に何回も出て来ました信雄のその部下であった佐治一成に嫁ぎました。

なお、長女や三女に比べてネームヴァリューはないのでありますが、次女の初は京極高次の正室として京極家に入りました。

京極家は、室町幕府の侍所の長官を世襲した四職の家門であり名門の武家でございました。

京極家はまた北近江の元の領主であり、浅井家の主筋でもあったのです。

しかし、当時の京極家は下克上により衰退し、浅井家や、後には秀吉様の庇護を受けていたのでございます。

また、高次の母の京極マリアは浅井長政の姉でしたので、高次と初は従兄妹の間柄でもありました。

 

なお、お江が嫁いだ佐治一成の母親は、お市様のお姉さまのお犬様ですから、一成とお江もまた、姉の初と同様、従兄弟同士の夫婦となるのでございます。

日本ではつい最近まで多かったのですよね、従兄弟夫婦。とても中国や韓国では考えられないようです。

 

しかし、小牧長久手の闘いのすぐ後に、秀吉様によりお江と一成は離縁させられ、お江は今度は秀吉様の甥の秀勝に嫁がされました。

そして娘をもうけました。

しかし、秀勝は伯父の秀吉様が計画した朝鮮への第一回の出兵の1592年に戦死しましたので、その三年後にお江は私の三男の秀忠の嫁になったのでございます。

秀忠はその前に織田信雄の娘で、秀吉様の養女となっていた小姫と縁組をしておりましたが、小姫が亡くなったのでお江を秀忠の妻として迎え入れたものでございます。秀忠16歳でございました。

お江は秀忠の6歳も年上の嫁でございました。

この間のいきさつにつきましては、あちらかの強要かこちらからの要望かを話すのはここでは控えさせていただきます。

ただ、秀忠は秀吉様のお名前の秀をいただいておりますことを申し述べます。

そして二人の間に家光が生まれました。それどころか多くの子をなしているのでございます。

 

すみません話がもどります。お江と秀勝様との間に生まれた娘は豊臣完子(さだこ)でございます。

豊臣完子は秀吉様の側室である淀様の養女となり、1604年に摂政家の九条幸家に嫁いでおります。その婚儀に際しては伯母であり、養母である淀殿が万事整え、京の人々を驚かせております。

さらに、義弟の秀頼名義で豪華な九条新邸を造営してもらいました。

これはその婚儀の4年後に秀頼の左大臣任官の動きが朝廷にあったためでございます。

1615年に豊臣家が滅亡したあとは、完子の母のお江が秀忠に嫁いでいたことから、九条幸家は徳川の世になっても公家と武家の貴重な仲介役になっております。

完子は九条道隆を産み、その娘が同族の九条家に嫁いで子をなしてと続いていきました。

 

そして、その九条家に、さらに別の徳川の遺伝子が忍び込んで行ったのでございます。

つまり三代将軍家光の娘が尾張徳川家に嫁ぎ、その娘が九条幸教に嫁いだのでございます。

そして、九条幸教の子が二条家に養子に行き。

そして、その孫が今度は九条家に養子に行きと九条→二条→九条と折り返しました。

あの~、ここに出てまいります九条と二条は藤原北家の摂関家で同じルーツなのでございます。

摂関家は天皇を補佐する公家の中でも数が限られた公家でございます。

そのもとは藤原家でございます。大化の改新の中臣鎌足、そして息子の不比等なのでございます。

すみません、詳しくお話したいのでございますが、お時間がございませんので省略させて頂きます。

しかし、簡単にいいますとその不比等の子が作った藤原北家から、摂政職を独占する近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家という五摂家ができてきたのであります。

その藤原家の棟梁を藤家の長者と申します。

明治に入りまして、摂政制度が無くなりましたので、大正天皇の皇后九条節子の父の九条道隆は最期の藤長者と呼ばれております。

そして、その道隆は新政府軍の奥羽鎮撫総督に就任し、戊辰戦争では東北地方を転戦しております。明治維新後は明治天皇の相談役となっているのでございます。

 

と、以上が三英傑の遺伝子が今上天皇に繋がってきたお話でございます。

えっ、そんな回りくどいことを話さなくても、私の孫娘が天皇家に嫁に行っているじゃないかって。

そこの方、良くご存知ですね。それではそれについてお話いたしましょう。

あれは大阪の陣の三年前でございます。私もすでに70才になっており、将軍職も秀忠に譲り、駿河に隠居しておりました。

そんなとき後水尾天皇が即位しました。私は早速に和子の入台を申し入れたのでございます。

当時、朝廷には私に反対できる勢力はございませんでした。しかし、大阪にはまだ、淀殿、秀頼がおり、豊臣家の家臣たちがどちらにつくのか、その動きがまだつかみきれませんでした。

徳川和子の入台は私の徳川幕府設立プロジェクトのすべての戦略、戦術を話すことになります。

えっ、お時間が大幅に過ぎてきていますって。

残念ですが仕方がありません、次回の会合で、孫の和子が生んだ女帝、明正天皇について、たっぷりとさせていただきます。それでは、皆様どうも申し訳ありません。

今年は忙しくて、あちこちでいろんなお話をしているのでございます。ご清聴ありがとうございました。

 

(控え室で)お~い、酒井君、次回のここでの私のスケジュールを確保しといてね。

酒井君、新幹線に間に合うかい。酒井君、さかい君、堺君、そういえば、来年のNHKの大河ドラマの「真田丸」の主人公は堺正章君、いや、堺雅人君だって。

ちょっと楽しみだね。きっと、私の話より10倍、いや100倍面白いと思うよ。

これも家康没後400年を記念して企画さえた大河ドラマなのでしょうね。

私の尊敬する信玄様が出てくるお話でしたね。千葉真一もカッコよかったね。

そうすると、また来年も私への講演や座談会の依頼が多くなって、忙しくなるのだろうね。

内野さんは「臨場」っていう、死体と向き合う検視官もしてましたね。

私が死んで400年、そして、家康となる内野さん頑張ってもらいたいですね。

私もうちに帰ったら、早速クスリを作って飲んで、体力をつけなくてはね。

ここ最近、運動不足だから、久しぶりに鷹狩りでもしてみようかな。でも、どこで出来るんだろうなあ。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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