シンゴ歴史めぐり12 家康のつぶやき ザビエルと対談の巻 その3

米朝     はい、これからは、本日の対談のしめくくりとなる家康さんのキリシタン対策でおます。   

ザビエルさんの来日から秀吉さんが亡くなられるまでのキリシタンはポルトガル一辺倒、イエズス会の独占と言った感じでおますが、家康さんの時代になりますと、ポルトガルと同じカトリックではおますが、ライバルのスペインの修道士会が加わってまいりました。そして、貿易の面ではプロテスタントであるオランダ、イギリスがやって来ました。そんでキリスト教や貿易相手国が入り乱れる状態になって来たわけでんな。

家康     私は、秀吉様と同様で交易の利のために、ある程度のキリスト教の布教は認めておりました。

しかし、オランダやイギリスは交易に宣教師が絡むことは無かったのでございます。

米朝     しかし、そんな時に、東北の伊達家がスペインに日本人の使節団を出しはりましたな。 

家康     これには私や二代将軍の秀忠(1579年~1632年)、伊達政宗(1567年~1636年)、

そしてスペインの思惑がそれぞれ絡んでいたのでございます。前にもお話しましたが、私は貿易に必要な銀の鉱山開発にはメキシコで実績のあるスペインの技術を必要としたのでございます。そんなときにフィリピンにいたスペイン人総督が任務を終えてメキシコに向かう途中、千葉で漂流したのでございます。たしか、1609年のことでございました。幕府はその翌年にアダムスが作った船で、その船長をメキシコに送り届けました。そして幕府もメキシコとの交易を計画しておりましたので、その船には日本人商人24人が一緒に乗って行ったのでございます。そして、次の年にメキシコから司令官が返礼を兼ねて、日本人商人一行を乗せてやってきたのでございます。そして、スペインは日本でのスペイン船の立ち寄りを求めてきたのでございます。といいますのは、スペインにとりましては、メキシコからフィリピンまでは長い航海でございます。船には水や食料をたくさん積んでいく必要があります。日本に立ち寄り、水食料の補給ができれば航海はずっーと楽になるのでございます。また、当時スペインやポルトガルの航海士の間に日本近海には金銀のでる宝の山があるとの噂が広まっておりました。それで、本当にそんな宝の山があるのかどうかの調査をもスペインはしたかったのでこざいます。スペインから帰って来ました日本人商人はたくさんの商品を持ち帰っておりました。それに幕府も先ほどお話にでました1610年のマードレ号爆沈によりポルトガル船によるマカオとの交易が一時途絶えておりましたので、ポルトガル一辺倒の貿易を多様化しようと考えたのでございます。そんなわけで仙台の伊達政宗が幕府の計画に乗り、船を作ってメキシコに出すと言ってきたのでございます。 私はそのころは、大阪の豊臣滅亡の案を練っておる最中でございましたので、メキシコ貿易は秀忠に代行させて政宗を支援させておりました。当初は幕府としても貿易だけを目的としておったのでありますが、スペイン側がローマの教会に日本人を連れて行きたいと言い出したのでございます。イエズス会の天正使節団の真似をして、日本でのスペインの優位性を得たかったのでございましょうな。それで急遽、編成したのが支倉使節団でございました。船は幕府の指導のもと伊達藩で建造しました。団長は支倉常長(1571年~1622年)でございます。支倉を含む伊達藩士13名、幕府からも10名、そのほかに日本人商人および送り届けるスペイン人などで180名もの大人数でございました。仙台を出発しましたのが1613年10月のことでございます。慶長18年のことでございましたので、慶長使節団とも呼ばれております。

米朝     天正使節団がジャニーズの若者としますと、支倉使節団は演歌歌手の追っかけ応援団が団体バスで行ったみたいなもんでしゃろか。

ザビエル それにしても、スペインはわれわれと違って日本を十分に理解していませんでした。    

聞くところによると、メキシコ政庁は大勢の日本人に押しかけられて迷惑したとか、支倉使節の目的がはっきりしないので対応に困ったと聞いております。また、1615年に使節団はスペインで国王に会って、そこで常長さんは受洗しました。そしてローマに行き、教皇にも会っています。なお、支倉さんの洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコといいます。ちなみに私の名前はフランシスコ・ザビエルです。いえいえ、彼が私を尊敬し、私の名前をつけたといっているわけではありませんよ。しかし、支倉さんがヨーロッパに行っている間の1614年に家康さんの日本全国禁教令がでたので、ローマからスペインに入った支倉使節団には対応が冷たかったようです。日本に帰るためにメキシコを1618年に出発しましたが、船は日本に立ち寄らず、スペインの植民地のフィリピンに向かいました。

米朝     支倉さんはマニラから1620年9月に仙台に戻っておりますが、

日本を離れて7年間の間にがらっと変わってもうた情勢に戸惑ったようでおますな。そして、支倉さんはその二年後に亡くなっております。享年50歳でおました。体力的にも精神的にも疲れきっておったのでしょうな。

家康     そうなんです。行きは良い良い、帰りはなんとかの例でございましょうね。

支倉一行が出発したあとの1614年に私は全国に禁教令を出しておりました。

米朝     どうして全国に禁教令を出さはったんですか。何かあったんでしゃろか。

家康     それはキリシタンの殉教でございます。

それにスペインとの貿易、銀山開発の情熱が私や幕府にもうなくなっておりました。と、いいますのはアダムスがいたのでオランダやイギリスと宗教抜きで貿易が出来る体制が出来上がっていたのでございます。

米朝    それではその辺をゆっくりとお話してもらいましょか。

家康     話は1600年の関が原に戻りますが、その戦いで徳川が勝ちました。

キリシタンに対してはその後も禁教令を出しておりましたが、取り締まりが厳しくなかったのでございます。そして、秀吉様の部下であった大名にはキリシタンが多くいましたし、キリシタンでなくともキリシタンの部下や領民に甘い大名が多かったのでございます。そんな彼らが、私が滅ぼした秀吉様の世が良かった、太閤様の昔にもどせ、徳川を滅ぼせと、あの強固な大阪城にたてこもられては私の構想は費えてしまうのでございます。

米朝     家康さんは先ほどの1612年の岡本大八事件のときに、幕府領での禁教令を出してはりましたな。

それで、当事者の有馬晴信さんが自害された翌1613年にはその子の直純さん(1586   年~1641年)は棄教して、浄土宗に改宗し、翌年には母違いの兄妹を殺してはります。

家康     そうでございます。

さらに直純は長崎奉行からのきつくキリシタンの取り締まりをするように指示をうけ、8名のキリシタン部下のうち棄教しなかった3名を処刑したのでございます。

その処刑には二万の群集が集まりました。そして、驚いたことに、キリスト教では殉教が祝福されるというこが分かったのでございます。集まった群集は殉教者の衣服や持ち物を切り取り、さらには遺体までもが聖遺物として持ち去られる有様であったと報告をうけました。

ザビエル 私も遺体となってから熱心な信者に足の指を噛み切られたり、先ほども申しましたとおり、

ローマに右腕を切り取られて送られております。カトリックでは殉教は尊いことであり、殉教した者の聖遺物は奇跡を起こすものなのでございます。仏教におけるお釈迦様のシャリみたいなものでございましょうか。

米朝     それで、家康さんの禁教令が出るわけですね。

家康     私は殉教者に大規模な行列ができたとの知らせを聞いた時には、思わず刀に手をかけて

「もう少し、近ければ自分で行って痛めつけてやる」とどなったといわれております。

ザビエル 私もそのように後輩の宣教師から聞きました。

家康     それで1614年1月に全国的な禁教令を出すとともに、秀忠名で伴天連追放令を布  告させたのでございます。

米朝     秀吉さんから始まって何回も禁教令が出ていましたが、1614年のは効果があったんでおますか

家康     はい、私も大阪の陣を実行に移す前でしたから、その時はしっかりとフォローすることにしたのでございます。

それでも、京都所司代の板倉勝重(1545年~1624年)などは京都には実数として7千名のキリシタンがいたにもかかわらず、千六百名しか申告しておりませんでした。それで、私は追放令を確実に実行するための総奉行として大久保忠隣(1553年~1628年)を京都に送り込みました。彼は厳しく取り締まり、棄教しないものは市中を引き回しにしたり、僻地の津軽に71名ものキリシタンを追放などをして効果を上げました。       しかし、忠隣の迫害は死者をひとりもだしておりませんでした。ですが、忠隣本人は本多正信・正純親子との対立ですぐに失脚してしまいました。

ザビエル 家康さんの禁教令がでた翌2月には、イエズス会の日本司教で日本に16年滞在したセルケイラ師(1552年~1614年)

が亡くなった時でもありました。そして、禁教令で日本各地から追放されて来た宣教師や、前田家に保護されていた高山右近(1552年~1615年)の一族が長崎に来ると大規模な聖行列が行われました。そして、宣教師や高山一族は、その年の暮れに、それぞれマカオ、マニラ、シャムに向かって出て行ったのです。

米朝     そして1614年暮れの大阪冬の陣を迎えることになるわけですな。

大阪城にはキリシタンとして行き場のなくなった武士たちも篭城しはりましたな。秀吉さんの五大老のひとりであった宇喜田秀家(1572年~1655年)の重臣のジョアン明石掃部や高山右近の家臣も加わっていたそうですな。そして、お城の中には救世主や聖ヤコブを描いた旗が六本あり、さらに城内にはイエズス会ばかりかスペイン系の司祭も5名おらはったとのことです。司祭さんたちは、一体何をしてはったんですか。

ザビエル 司祭たちは信者の武士たちに聖務を施すために一緒に城中にいたのです。

米朝     そして翌年の5月の夏の陣で、とうとう大阪城は落城しました。

ザビエル 司祭たちも命からがら逃げたと聞いております。

家康     私も我が軍の前を逃げていくどこかの司祭を見かけました。が、部下には見逃すように指 示を出しております。

米朝     この大阪夏の陣の模様を東軍に参加した黒田長政(1568年~1623年)が屏風にして残してはりますね。

内容は戦う場面も描いてありますが、逃げ延びる人たちを襲う武士など当時の惨劇を、あるがままに描いた貴重な資料になっております。今の報道写真でいうならば、ピューリッツァー賞もんでしゃろな。

米朝     この大阪の夏の陣が終わったあとの9月に、秀忠さんは改めてキリシタン禁教令を出すとともに長崎、平戸二港への交易制限令を出されておりますね。

家康    まあ、この戦いで、徳川体制が出来たのでやりたいことが出来るようになったということでございます。

ザビエル しかし、それが長崎に追放されて集まっていた宣教師や信者たちへの迫害へとなっていくのです。

長崎領主で日本で最初のキリスタン大名であった大村純忠(1533年~1587年)の孫である大村純頼(1592年~1619年)は子供の時に洗礼を受けましたが、禁教令により棄教していました。しかし、潜伏する宣教師たちには同情的だったのです。それで、徳川秀忠さんから取締りが生ぬるいとなじられたのです。そして、純頼はお茶でも濁すように、二名の宣教師を捕らえました。すると、江戸から即座に二名を斬首せよとの指令が来たので、実行したのです。そして、潜伏していた宣教師たちが見つかっていくたびに、江戸から派遣された長崎奉行          は処刑を実行して行きました。そして処刑される人たちが長崎ばかりでなく日本のあちこちに出て来ました。 私たちが持っている記録では1619年に京都で52人の信者の処刑(火刑)、1622年に長崎で55名処刑(火刑25、斬首30)-元和(げんな)の大殉教といいます。

米朝     ここに統計がありまして、1614年から鎖国に入る1636年までに4065名の処刑がされたとあります。          

家康     しかし、幕府としましては、キリシタンを見つけて処刑するのが目的ではございませんでした。

キリシタンに棄教をしてもらうのが本来の目的だったのでございます。

米朝     そして、長崎奉行は1927年2月に長崎住民に宣教師を宿泊させることを禁じておりますね。

家康     はい、そうでもしないと、宣教師たちが自由に長崎の町を歩き回るからでしょう。

しかし、カトリックの人たちを捕らえて棄教を迫っても、処刑され殉教死することを望んでいったのでございます。私が死んだあとからのキリシタン対策につきましては、私の政策というよりも、私が将軍につけました年寄りや、お寺の坊主たちのものでございますから、本日は省略させていただきたく存知ます。     しかし、大きく言えばそれらが1637年の島原の乱、そして、長崎に閉じ込めたオランダ貿易となっていくのでございます。なお、殉教というか、殉死についてはわれわれも理解はできました。われわれも武士も領主が亡くなりますと、後を追って家臣が切腹する習慣があったからでございます。しかし、この制度も1665年の4代将軍家綱(1641年~1680年)の時代に武家諸法度     の公布とともに殉死を口頭で禁じ、5代将軍綱吉(1646年~1709年)の時代の1683年 に末期養子の禁止の緩和とともに殉死の禁止を武家諸法度に正式に組み入れたのでございます。これらは武断政治から文治政治への移行する時期をあらわしておりますが、その経緯に     つきましては、こまた、別の機会にお話させていただきたく考えます。

米朝     と、いうことで、家康さんのキリシタンに対するお考えについて、ザビエルさんも十分理解して頂けたのではないかと思います。

ほな、お二人の対談はここで終わらせてもらいます。

           どうも長い間お話をしていただきありがとうございました。

――――対談後の楽屋でーーー

枝雀    お師匠さん、お疲れでございました。

米朝     おお、枝雀か、来とったんかいな。

枝雀     そうでもあるし、そうでもない。

米朝     なんやわからことを相変わらずゆうてまんな。あんたは。

枝雀     私がここに来たんは円楽さんから、これを見てくれって頼まれたからでんねん。

米朝     なんなんや、それ。

枝雀     「東西人間国宝落語会 小さんVs米朝」のポスターですがな。

円楽さんはお師匠さんがこっちに来はったゅうんで、人間国宝の落語対決をやりたいちゅ   うて、大張り切りですわ。私も応援で前座に入ってますんや。

米朝     ほなら、談志さんはどないや。

枝雀     あきませんわ、あのひとはこっちゃに来ても小さん師匠にたてついてまんねん。

           それに「談志が死んだ、談志が死んだ」の一点ばりで。それにまた戒名が立川雲黒斎

           家元勝手居士でっしゃろ、しゃれにもなりませんわ。

米朝     そうか、こっちゃで相変わらずあかんか。

ほなら、ちょっとポスター見せなはれ、私はメガネがないと、読めへんようになってしもて       な。どれどれ。あれっ、ポスターの下の方にあ     るんわ桂歌丸さんや、ないか、あの人も、もうこっちゃに来てはるんか。

枝雀     お師匠さん、よ~く、見ておくんなはれ。写真の下に「近日来演」で書いてますやろ。

米朝     そうか、どおりで私のメガネの焦点(笑点)が合 わんかったわけやな。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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