シンゴ歴史めぐり2 家康のつぶやき 幕末の巻

いいえ、全て、私の責任でございます。何がですかって。260年以上も続いた徳川家というか徳川幕府が崩壊したことでございます。

私が、つらつら考えますのに、私が取りました三つの政策に間違いがあったと思います。
一つ目は御三家を作ったこと、
二つ目は家光を3代将軍にしたこと、
三つ目は薩摩を甘やかしたことでございます。

なぜ、御三家を作ったことが幕府崩壊につながって行くのかと申しますと、私は、1603年に将軍になり、1605年には、三男の秀忠(1579年~1632年)にその職を譲りました。なぜ、三男かと申しますと、長男の信康(1559年~1579年)はすでに亡くなっておりましたし、次男の結城秀康(1574年~1607年)は養子に出し、すでに越前北庄67万石を与えておったのでございます。そして、私は徳川家の後々のことを考えまして、本家に将軍の後継ぎがいなくなった時に、将軍を出せる家として御三家を作ったのでございます。

私は小さい頃から、あっちに人質、こっちに人質、そして、あのご気性の激しい信長(1534年~1582年)様に仕え、人たらしでございました秀吉(1537年~1598年)様に関東を頂戴し、じっと耐えて、天下を取らせて頂いた男でございます。

私の代まで綿々と続いてきた松平家、いや、その前からの得(徳)川家の血筋を絶やすわけには参りませんでした。

御三家でございますか、それは私の末っ子たちでございます。9男の義直(1601年~1650年)の尾張徳川家、10男の頼宣(1602年~1671年)の紀州徳川家、そして末の男の子で11男の頼房(1603年~1666年)の水戸徳川家でございます。
余談になりますが、年を取ってから出来た子供というものは可愛いものでございますよね。えっ、私がいくつの時のお子さんたちですかって、私は1543年生まれですから、それぞれ、数えで60歳、61歳、62歳となりますかな。

義直の母は京都のお寺の出身の亀、そして頼宣と頼房はお万の子でございました。

お万といえば、思い出します。お万の母親の再婚相手が日蓮宗を信仰する家だったのでございます。それで、お万も身延山法王の日遠(1572年~1642年)に帰依しておりました。私は浄土宗でございましょう。日蓮宗とは合わないのでございます。

それで、私と日蓮宗の間でごたごたがあった際に、日遠が怒って法王を辞めてまで、私が禁止した宗論をすると挑んできたのでございます。私は日遠を磔(はりつけ)の刑にしようとしたのでございますが、お万が止めに入ったのでございます。私は最初、許しませんでした。そうすると、お万が二枚の死に衣を縫っているではありませんか。それがお万と日遠のものと知って私はびっくりして、日遠を許したのでございます。そんなこともあったのでございますよ。

お万は孫たちよりも若い37歳年下の可愛いオナゴでございました。そして義直、頼信、頼房の後に生まれました本当の末っ子は五番目の娘の市姫でございます。私が66歳の時のことでございます。

市姫の母親はお梶といって関東の武士の娘でございました。市姫には信長様の妹御のように美しくなって欲しいと思って名前をつけましたが4歳で亡くなってしまいました。

また、私は東北の伊達正宗(1567年~1636年)を懐柔する為に市姫と正宗の息子との婚約を決めておったのでございます。亡くなった市姫の代わりには私の次女のお督と池田輝政(1564年~1613年)の間にできた孫娘を伊達家の嫁に出しました。

えっ、さっきから聞いていると私が年を取ってもお元気でしたのですねって。皆さんは、そんな元気はないのでございますか、まだまだ、お若く見えますのに。年老いての子供は孫のようなものでございましたが、私の子供たちには、孫やひ孫よりもあとに生れたものが沢山いたのでございます。

ちなみに、私の初孫は長男信康の長女登(と)久(く)姫で、私が34歳の時の孫でございます。翌年には同じく信康のところに次女熊姫が生まれました。しかし、信康はその2年後に切腹したのでございます。嫁の徳姫は美濃に帰り再婚しましたので、私が孫たちを引き取り育てました。

孫の熊姫が生まれたのと同じ年に奥平信昌(1555年~1615年)に嫁いでおった長女の亀姫が奥平家政(1577年~1614)を生みました。この亀姫が宇都宮吊り天井事件でも顔を出す加納御前のことでございます。加納御前と呼ばれるのは夫の信昌が美濃国加納藩を任されたからでございます。

また、信昌との結婚は信昌たちがまだ三河におります時に、武田対策として信長様から勧められたものです。信昌の信の字も信長様から頂いたものでございます。これを偏諱(へんき)と申します。

また、最初の『ひ孫』は、やはり信康の娘の登久姫が産みました万姫で私は50歳でございました。それに私が亡くなる5年前にその万姫が子を産み、私には玄孫(やしゃご)も居たのでございますよ。

信康も亀姫も。私がむごいことをした正室の築山御前の子供たちでございます。私は築山御前を亡くしてからは、継室を設けず、側室一本槍でございました。私の子や孫の話で話が長くなってしまいました。

話を御三家に戻します。末っ子の頼房の水戸家には武士の心得として朱子学を広めるように指示をしましたら、頼房の三男の光圀(1628年~1700)が日本史の編纂を始めたのでございます。これがまた、逆目に出てしまったのでございます。朱子学は中国の思想で、あの仁義忠孝でございます。親には孝を、主君には忠をと、それを広めていけば、徳川家がいつまでも栄えることが出来ると思ってしたことでございます。その朱子学が、私はよくわかりませんが、より過激な陽明学となり、日本では将軍は天皇から指名された職にすぎず、万系一世の天皇が日本の頂点に立つとの教えになっていってしまったのでございます。まあ、私は水戸家がそこまでするとは思いませんでした。

一方で、天皇の世になっても徳川の血を引く水戸家だけは生き残ることができ、徳川の血筋を残るようにと、私が仕組んでおいたのだと言う人も最近ではいるのでございます。なにはともあれ、その水戸の朱子学が幕末の尊王攘夷思想につながっていったのでございます。水戸家を任せました11男の頼房は兄秀忠の子の家光(1604年~1651年)の一歳年上でございました。秀忠も自分の子の家光の指導係として24歳離れた末の弟の頼房を側に置いておきたかったようでございます。

また、水戸は江戸から近いこともあり、江戸を離れたくない頼房はそれをいいことに江戸に住むことが多くなりました。それで、水戸藩が定府といって参勤交代のない江戸詰めになったのでございます。頼房は甘えん坊でございましたね、そんなことを許してしまった、この私が悪いのでございますよ。

そして私が命じました水戸の朱子学の追求、光圀の日本史の編纂が、ジワリジワリと日本中に広まって行きまして幕末になって爆発するのでございます。関が原で私の敵となり戦って負けて縮小や転封された藩どころか日本のあちこちで先ほども申しましたように将軍は日本の長ではない、徳川を征夷代将軍に任命している天皇こそが日本の長であるという筋書きになっていったのでございます。

また、朱子学とは関係がございませんが中国地方の雄であり関が原で負け120万石から30万石の大名となってしまった長州では正月の時に家臣が『まだでござりますか』と問いますと藩主が『時期尚早である』と述べる仕来たりになっておったそうでございます。これは『徳川を今年は討伐しましょうか』『いや、もう少し待て』ということでございます。

そして幕府崩壊の二つ目の私が家光を3代将軍にしたことでございます。先ほども申しましたように、私は1605年に駿府に引っ込み秀忠が江戸で仕事をするという、いわゆる二元政治を行っておりました。すると1615年に、大奥の春日局(1579年~1643年)があたふたと駆け込んできたのでございます。春日局は秀忠の次男竹千代(家光)の乳母で、よく出来たオナゴでございました。彼女は江戸を離れる時に私のところへ行くと言うと秀忠夫婦に良く思われないので、『お伊勢参りに行く』と言って出てきたそうでございます。その時に、春日局が申すには、秀忠がお江(1573年~1626年)の尻に敷かれており、次男の竹千代(家光)よりも三男の国松を世継ぎにしようとしているとのことでした。なお、秀忠の長男は生れてすぐに亡くなっていましたので、次男の竹千代が嫡男になるのでございます。

お江ですか、あの浅井三姉妹の末っ子でございますよ。信長様の妹御のお市様の娘で、秀忠よりも六つも年上でございました。年上の女性は『金のわらじを履いてで探せ』といわれますが、六歳も上では、ちょっと、まぁ、あれですね。それもあって、秀忠はお江には頭があがりませんでした。やきもち焼きのお江に遠慮して側室もおりませんでした。

また、余談になりますが、そんな秀忠の奴も、一度、お江の目を盗んで、乳母の侍女に手をつけ、男の子を作ったんでございます。4男の幸松でございます。お江が怖い秀忠は、この子を武田信玄(1521年~1573年)の次女に預けたのでございます。その子が大きくなって旧武田家家臣の保科家に入り、保科正之(1611年~1673年)になり会津藩主になるのでございます。母親は違いましたが、家光は正之を大変可愛がってくれました。そして正之も家光の子の4代将軍家綱(1641年~1680年)の後見役にもなり徳川家を助けてくれました。それに正之は松平の姓を受けるのを遠慮していたのでございます。保科家が松平を名乗ったのは1696年で正之が死んだあとの子の時代でございました。

その正之の会津松平藩の律儀さは、幕末にまで続き松平容(かた)保(もり)(1836年~1893年)が京都守護職として攘夷の過激派から幕府を守ってくれたことはよ~くご存知のことと存じます。実は容保を含む高須4兄弟には水戸家の血が流れているのでございますよ。

なお高須藩というのは現在の岐阜県海津市(かいづし)付近にあった藩でございます。なぜか今日は加納に続いて高須藩などと岐阜の話題を出してみたのでございます。春日局の報告でございますが、秀忠たちが竹千代よりも国松を跡継ぎにしたいと考えていると聞いて、私はそんなことがあるはずがないと思い鷹狩りを装って江戸に出かけたのでございます。

そして江戸城で孫たちに会うと春日局の言ったとおりでございました。私は弟の国松にわざときつくあたり跡継ぎは竹千代であることを秀忠夫婦に見せつけたのでございます。それが良くなかったのでございましょうね。私が作り上げた徳川幕府は磐石になりつつありました。もう将軍が上から指示することは必要がないよう家光の時代には老中や若年寄りたちが協議し将軍に報告だけすればいいように作り上げつつあったのでございます。

将軍はあまり賢くないほうがよいのです。賢いと下の者が困るのでございます。強い組織、勝つ組織、安定した組織とはどんなものか私は小さいころから苦労した経験の中から考え、そして子や孫が困らないようにそんな組織を作り上げつつあったのでございます。

家光は病弱で神経質でしたが、1623年に3代将軍になりました。弟の国松の方が活動的で頭も要領も良かったのでございますが私は将軍に能力は必要がないと思ったのでございます。国松は崇伝(1569年~1633年)が名付け親になって松平忠長(1606年~1634年)と名乗りました。

しかし忠長はわがままでやりたい放題だったので父秀忠や兄家光の不興を買い父の死に目にも立ち合わせてもらえず結局28歳で家光にというか幕府により自刃させられる羽目になったのでございます。えっ忠長は母親のお江の叔父の信長に姿も性格も似ていたんだそうですね。そう言われればそうですが、だからといって私が忠長を嫌ったわけではございません。

この家光の後は家光の子(4代家綱、5代綱吉)、孫(6代家宣)、そしてひ孫(7代家継)が将軍になったのでございます。しかしその家継(1709年~1716年)の時に私が作っておいた御三家が役立つ時が来たのでございます。

家継の父の家宣(1662年~1712年)は子供は出来るのですがみな夭折してしまい男の子は家継だけとなりました。そして家宣が亡くなり4歳で将軍となった家継も8歳で亡くなってしまったのでございます。これで徳川本家というか、家光から続いた本家の血筋は絶えてしまったのでございます。それで、御三家の紀州家で私のひ孫にあたる吉宗(1684年~1751年)を8代将軍として受け入れたのでございます。

ここまでは良かったのですが、これからが失敗であったのでございます。吉宗は私の御三家の真似をして御三卿という将軍家を出す家柄を紀州家の中に作ってしまったのでございます。

御三卿でございますか、田安家、一橋家そして清水家でございます。それで、その後の将軍は御三卿の紀州家から出ることになるのであります。当然、尾張や水戸は面白くなかったようでございます。このことが幕末の継嗣問題に、かなり影響しているのかもしれません。ここらへんが、徳川時代を理解していただくのにややこしいところでございます。それを分かりやすく理解をしていただこうと血筋からみる将軍の表を作って持って参りました。

これを見ると、どこの徳川家から将軍が出ているのか良~くわかると存じます。いままで誰も作っていなかったのでは と存じますよ。これは自画自賛というものでございましょうか。

吉宗も孫の代に血筋が耐えたので将軍家から紀州家に将軍職が移ったように紀州家からその御三卿の一橋家への将軍職が移っていったのでございます。そして時代は流れ明治維新まであと10年という時でございました。一橋家の血を引く13代家定(1824年~1858年)には子が出来ませんでした。その将軍の後継者として水戸家で生まれながら一橋家に養子にだされた慶喜(1837年~1913年)と紀州家の11代家斉(1773年~1841年)の血を引き13代家定の従兄弟にあたる家(いえ)茂(もち)(1846年~1866年)の二人が候補に上がったのでございます。

慶喜の実父は攘夷バリバリの水戸の徳川斉昭(1800年~1860年)でございました。家茂はまだ子供でございました。それで水戸を中心に攘夷派大名が推す慶喜と前の将軍に血筋が一番近い家茂を押す紀州派を中心とする大名たちが対立する構図になったのでございます。

ここでまた余談ですが13代家定は女房運が悪く正室、継室を早くに亡くして三番目に迎えたのが皆さんご存知の島津家から来た天璋院篤姫(1835年~1883年)でございます。

島津家から将軍に嫁いだ篤姫は二人おりますのでご注意をお願いします。ひとり目は11代家斉(1773年~1841年)に正室として嫁いだ広大院篤姫(1773年~1844年)で、家定の嫁の天璋院篤姫はふたり目でございます。ひとり目の篤姫はお江以来という正室による男の子誕生つまり跡継ぎが出来たのでそれにあやかったものです。しかし、その初代篤姫の子は跡継ぎになれませんでした。と申しますのは家斉にはその前に側室との間に生れた子である家慶(1793年~1853年)がすでに将軍の跡継ぎとされていたのでございます。

話を戻します。この1858年という年は大変な年になったのでございます。その5年前の1853年にペリー(1794年~1858年)の黒船が来て、日本中がひっくりかえるように大騒ぎをし、翌1855年にまたペリーが来て和親条約を結んだのでございます。

余談ですが、このペリーは、最初に日本に来たときにはすでに60歳だったのでございますよ。そして日本はアメリカを始めとして英国、ロシアと次々と和親条約を結び二百数十年間続いてきた鎖国政策をやめてしまったのでございます。

また、1855年11月には安政の大地震があり、江戸は大混乱になりました。1856年には日米和親条約に基づいて、ハリス(1804年~1878年)が下田に上陸し、総領事館を開き、幕府に今度は日米通商条約を結ぶように強く要求して参ったのでございます。

翌年にハリスは、とうとう江戸にまで押しかけてきて将軍と面会までしてしまったのでございます。そして、老中の堀田正睦(まさよし)(1810年~1864年)に、早く通商条約を結べと強行な態度をとったのでございます。そこで、幕府としてもハリスの勢いには対抗できず、通商条約を結ぶことを、まず朝廷に説明すべきであると、1858年の初めに老中で開国派の堀田が部下を連れて、京都まで行きました。これで、いかに幕府に力が無くなっているのかが分かるかと存知ます。

そして、堀田たちは外国人大嫌いの孝明天皇や公家たちを条約締結を認めてもらおうと、お金をばら撒いたのでございます。しかし、それがうまく行かなかったのでございます。その時に堀田は京都で六万両もばら撒いたといわれます。幕府としてはアメリカからの通商条約締結の要求と、国内の将軍の後継者問題を解決しなければならなかったのでございます。

そして、1858年の4月に、あの井伊直弼(1815年~1860年)の大老就任でございます。直弼は大老職をいいことに、どんどん独断で物事を進めていったのでございます。家定の後継者には『血を尊重すべきである、名君は必要ない』として、紀州派が押す家茂を後継者にしてしまったのでございます。ここで、私の作った将軍は能力がなくても良いという筋書きが、悪い面に出てしまったと後悔しておる次第でございます。

直弼は5月には一橋派の攘夷派のメンバーを左遷させ、6月には天皇の許可なくアメリカと通商条約に調印してしまったのでございます。それは6月19日のことでございました。そして、7月6日に家定が35歳で亡くなったのでございます。後継将軍となった家茂は13歳でございました。今で言う小学生でございます。

7月16日には開国派で、篤姫を将軍家に送り込んだ島津斉彬(1809年~1858年)が亡くなりました。よくは存知ませんが、ここも跡取り問題で先代の後妻に殺されたって噂もございます。

この1858年に天皇の許可のない通商条約の締結、将軍が家茂就任、井伊の攘夷派への弾圧などがあり、そして1860年の桜田門外の変などと幕末から明治維新へと話が進んでいくのでございます。

えっ、もう終わりですかって、島津を甘やかしたことを、まだ話をしていないってですか。それに、1868年の明治維新に向けて、面白い話がどんどん出てくるのではないかって、ですか。そうでございますよ、しかし、島津についてお話いたしますと、長州や土佐との絡みも出て参るのでございます。それを、私がつぶやき始めますと、とても、とても一時間や二時間では終わらないのでございます。

今日はここいらで、私のつぶやきを一旦締めさせていただきたくお願い申し上げます。このほかの話は、またの機会にということで、ご勘弁を申し上げます。

徳川幕府は私がその基礎を作ったときから崩壊が始まっておったのではないか反省しきりの今日この頃でございます。

(家康のボヤキ「慶喜め、あきらめるのが早すぎるわ、いくら自分の母親が有栖川宮出身で錦の御旗に逆らえないからといって部下を置いて大阪から船にのって江戸に逃げ帰ってはアカンわ。もう少し、我慢できなかったものかのう」。)

丹羽慎吾

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Optionally add an image (JPEG only)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください