知らぬと仏

遠ざかる砂浜。次から次に私をのみ込む高波にもまれながら「しくじったなぁ…」と私はただただ後悔するしかなかった。そう、私は異国の海で離岸流に引っ張られどんどん沖に流されていたのだった。

あれはもう10年ほど前になるだろうか。旧友に誘われてバリ島へ行った時のことだ。深夜に到着した私は昼頃までホテルで寝て、夕方散歩ついでに海で泳ぐことにした。その砂浜は広く人がほとんどいない。日本の海水浴場との違いにテンションが上がった。遠くの海で台風が発生していたようで波は少し高かったが浅瀬なら大丈夫そうだ。私はサンダルとシャツを目印になりそうな赤い旗の下に脱ぎ捨て海に入っていった。腰くらいの高さの水位でも押し寄せる波は結構高いがそれがまた楽しい。私は次々に波へ突進していった。何回かそれを繰り返していると先ほどは腰の高さだった水位が胸の高さまでになっていた。波がくると一瞬浮いて足がつかなくなる。しかし波が引くと足がつくのでこの時の私はまだそれを楽しんでいた。そして何度かそれを繰り返した時だった。波がひいたはずなのに足が底に届かない。

「お!?ちょっともどるか…」

私は砂浜に向かって泳ぎ始めた。泳ぎ始めて数秒、すぐに私はある違和感を持った。

「進めてなくない?」

必死に泳いでいるにもかかわらず前に進むどころか沖に引っ張られているのがわかった。ここではじめて「やばい!!」と自分の置かれている状況を認識したのだが時すでに遅し。どんどん沖へ引っ張られていく。私は泳ぐのを諦めた。実をいうと私は泳ぐのはそれほど得意ではない。しかも沖へ引っ張ろうとする力があまりに強くて泳いだところで脱出は無理だろうと早々に白旗を上げたのだった。そんな私に残された手段はとにかく浮き続きることしかなかった。

「誰か気がついてくれたら…」

とうぜん私はどんどん沖に引っ張られていく。沖からはさきほどよりも高い波が次から次に迫ってくる。その高い波にのまれると人間は無力だ。海中でグルグルグルグルと何回転もさせられる。私は「洗濯機の中ってこんな感じなんだろうな…」と思いながらなすがままに海の中で回り続けた。やっとのことで水面に顔が出た時には次の波が目の前に迫ってくる。息をする間もなく再び私は海の中でグルグルグルグル…本当に苦しかった。そしてただただ残念でならなかった。

「もっとはやく違和感に気がついていればなぁ…」
「そもそも海に入らなければよかったなぁ…」
「浜に誰もいなかったから無理だろうなぁ…」

私の頭に『死』の文字が浮かんだ。しかし意外にもパニックになることはなかった。もしかしたらあまりの恐怖に麻痺していたのかもしれない。波にもまれながら考えていたのは「テレビで『バリ島沖、邦人男性死亡』なんて流れるかなぁ」なんてくだらないことだった。

何分くらい波にもまれ続けたのだろう。海水をたくさん飲んだ。「そろそろきびしいなぁ…」と諦めかけたその時、1人のライフセーバーがサーフボードに乗ってこちらに向かって泳いでくる姿が波間に見えた。

「おぉっ!助かるぞ!!」

地獄で極楽から垂らされた蜘蛛の糸を見つけたカンダタもきっと同じ気持ちだったのではないだろうか。荒波を乗りこえ来てくれたライフセーバーが私の上半身をサーフボードに乗せる。

「あぁ、助かったぁ」

そんな安心する間もなく「お前も早くこげ!!」とライフセーバーがまくしたてる。私は残っている力を振り絞り必死に漕いだ。とにかく助かるのだ!!そしてなんとか私は生還したのだった。

こんなに身体って重かったのかと思うほど砂浜にたどり着いた私は立つことさえできなかった。腕が上がらない。そんな私にライフセーバーがタオルをかけ水をたくさん飲ませてくれた。私はしばらく砂浜に横たわって目を閉じた。

「あぁ、まだ生きてるんだなぁ…」

そこに、野次馬たちが集まってくる。
「死んだのか?」
「ここは波が高いから危ないんだ!!」
「毎年ここで何人か死ぬらしいぞ!!」
そんなことを言っていたような気がした。私は「生きてますよぉ…」のつもりで力なく手をあげる。すると集まった野次馬たちは「おぉっ!!」と歓声をあげ、しばらくたつと散っていった。そしてやっと落ち着いた頃、ライフセーバーの説教がはじまった。

「あそこをみろ!赤い旗が立っているだろう?赤い旗が立っている時は海に入ったらダメなんだ!!俺が通りかからなかったらお前は死んでいたぞ!!」

グウの音も出ないとはまさにこのことだ。そうだ、私は海に入る前、その赤い旗の下にサンダルとシャツを脱ぎ捨てたのだ。「お!いい目印があるぞ!」なんて思いながら…。

後々調べてみてわかったが、海岸の赤い旗は海外だけの遊泳禁止の印ではなく日本でもちゃんと使われているのだ。全然知らなかった。それまでに私が行ったことがある日本の海水浴場にはたくさんの監視員がいて、海が危険になったら放送して注意を促してくれるところばかりだった。なんてありがたいことだろう。しかしこの手厚さに甘えてきた結果、いつの間にか私は自分の安全を誰かに任せることが当たり前になってしまっていたのだ。赤い旗の意味を知らずに荷物をそこに置いて危険な海に入って溺死…こんなマヌケな死に方をしていたら悔やんでも悔やみきれなかっただろう。

 

いつからか7月第三月曜日は祝日・海の日となった。とくに今年は暑いので海に出かける人は多いはずだ。ぜひ忘れないでもらいたい。人間は海の中では無力だ。そして、ちゃんと知識を持ち自分で安全を確保した上で楽しんで貰いたい。

知らぬと仏、なのだ。

 

まーぼー

知らぬと仏” に対して2件のコメントがあります。

  1. アバター miiko より:

    スリル満点のエッセイ、ハラハラしながら読ませていただきました。
    まーぼーさんは今ピンピンしておられるのだから、大丈夫だったということはわかっているのに、引き込まれてしまいました。

    よかったですね。きっと今も時々思い出してヒヤッとなさることがおありかと。

    センスが光る標題にも拍手です。

  2. まーぼー まーぼー より:

    miikoさん

    コメントありがとうございます。
    「もうダメだろうなぁ」なんて状態から何とか助かって今にいたりますが、時々ふと思い出すことがあります。
    海だけではありませんが川や湖など自然は我々が思っている以上に危険であることを忘れてはいけませんね。

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