おぼろげ記憶帖 05 堀川

大阪は「水の都」と呼ばれていて網の目のように堀川が巡らされている。江戸時代に大坂の街の発展に伴い淀川デルタ地帯の整地をした。低地の排水と地面のかさ上げ用の土砂の必要から堀川が掘られて舟運に利用された。これはスマホの検索から得た知識です。

終戦後間もない昭和23年に入学したのは堀川小学校。戦災から免れ、鉄筋3階建ての立派な校舎で25mのプールもありました。(そこから数百mの所は焼けたのですが・・)1873年明治6年の創立だそうです。また通った高校も3年後は150周年だと同窓会記念行事の準備を始めています。明治に学制が頒布されて同じ年の創立であることが判りました。何と新しい教育制度の一番乗りだったのでした。

南の今宮戎神社、今宮さんに対して北は堀川のえべっさん(戎)。1月9日の宵戎、10日のほん戎、11日は残り福。笹に熊手や戎さん、縁起物をいっぱい付けて貰って「商売繁盛で笹持って来い」と囃し立てながら小躍りで歩いて帰ります。

堀川、正式には天満掘川(てんまぼりがわ)というそうです。川沿いには同級生の家が何軒もありました。

メリヤス屋のむっちゃんの家は店員さんもたくさんでした。
「どざえもんが上がったぞ!」
と言う叫び声。子供たちは、
「子供は来たらあかん!」
と言われても怖いもの見たさに駆け出していました。

引き上げられてむしろを被せてあったのを一度ならず3度も見てしまいました。

うどん屋のせっちゃんの家に近づくとおいしい出しつゆの匂いがしてきます。裏手がすぐに堀川でしたから黄色いたくあん(沢庵)「おこうこ」 と呼んでいました。切れっぱしを貰って紐にくくり付け長く垂らしてザリガニ釣りを楽しみました。小学校低学年の頃です。

いつの間にか思い出の堀川は埋め立てられ自動車専用道路になり、その上を阪神高速がビュンビユン走っています。堀川橋は川に掛かっているのではなく、自動車道を跨いでいました。

生まれ育った大阪はドンドン変わりゆき、両親も亡くなった今は同窓会と二つのお墓参りに帰阪するのみでどちらが本命かわからない親不孝をしています。

生まれたのは堂島川のほとり、育ったのは堀川。
住んだのは大川から東横堀川に通じる堰の傍、パリのセーヌ川。
そして現在は多摩川。
散歩は二ケ領用水。
それぞれほんの目と鼻の先の距離です。

水の都の大阪とは縁の切れない大阪人間なのかも知れません。

 

*写真は昭和23年当時の国鉄大阪駅(東口)

 

AZ

 

おぼろげ記憶帖 05 堀川” に対して1件のコメントがあります。

  1. アバター AZ より:

    昭和23年の写真をよくぞ見つけて頂きました。ありがとうございます。
    おぼろげになっているあの当時のことを次々と懐かしく思い出しています。
    電車はあの当時省線と呼ばれていて今は環状線になっています。大阪で一番人出の多い所です。23年頃は写真の手前はやみ市でした。連れられて行った記憶があります。その後トロリーバスが走り、阪急阪神の二つのデパート、中央郵便局。その前は長距離夜行バスの発着所。私も何回か乗って大阪東京を往復しました。曽根崎警察署と旭屋書店。今は歩く歩道が整備され以前の面影がなくなりました。でも今も帰阪の折にはあちこち出掛ける起点になっています。

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