南武線いまむかし

川崎市を縦貫する「南武線」は、私たちの毎日の生活に欠かせない大切な路線であるが、その歴史についてはほとんど知らない。比較的地味な路線ではあるが、語るべきことは多い路線だと聞いたことがある。はたして、どのような背景で鉄道が敷かれどのようにして変貌を遂げてきたのかを見てみたい。

砂利輸送

まず、南武線の前身である私鉄の南武鉄道が、川崎~登戸間及び矢向~川崎河岸間(貨物線)を新規開業したのは、昭和2年(1927)3月9日。今から92年前のことである。当時の主な目的は、多摩川上流で豊富に採れる砂利を輸送することであった。

免許申請時の名称は、そのものずばりの「多摩川砂利鉄道」であった。都市建設にとって砂利は必需品で、とりわけ関東大震災以後は復興需要が急増したため、多摩川の砂利に目を付けて鉄道建設を目論んだのは理にかなった話である。その後、社名は「南武鉄道」に変更された。

砂利用引き込み線

中野島に存在していたという鉄道の引き込み線は、現在のどの場所にあったのだろうか?何種類かの古い地図で見る限り、現在の中央商店街近くにあった旧中野島駅から登戸方向へカリタス幼稚園の敷地を三分の一程かすめて多摩川方向へ湾曲して多摩川土手近くまで伸びていたことが分かる。

現場を歩いてみますと近辺には家屋がびっしり立ち並び、残念ながら撤去された痕跡らしきものすら見当たらない。1961~63年頃の航空写真で見ると、おぼろげながらその痕跡らしきものが見える。砂利採取の全面禁止が昭和40年なので、それ以降撤去されたものと思われる。

海への積み出しルート

最初の開業区間の一方の終点である川崎河岸駅には、砂利を船に積み替える設備があり、鉄道と水運の結束点となっていた。本来は貨物駅も川崎駅に隣接していたほうが便利だったはずだが、南武鉄道は川崎駅から多摩川に至る土地を確保できなかったという。その後、他業者の採掘は増加したものの、上流からの砂利の供給が減少し、昭和47年(1972)、川崎河岸駅は廃止された。

南武鉄道を立ち上げ推進したのは地元の名望家たち(設立発起人は秋元喜四郎ほか12名)であった。しかし、言うまでもなく鉄道の建設には莫大な費用がかかる。地元の資金力だけでは立ち行かず、中央の資本に依存せざるをえなかった。

砂利鉄道から石灰石輸送路線へ

南武鉄道の筆頭株主となったのは浅野セメント(現太平洋セメント)系の浅野泰治郎(2代目総一郎)であった。浅野セメントは大正6年(1917)、田島(浜川崎)に川崎工場を設置し、臨海工業地帯の整備にも取り組んでいた。

原材料となる石灰石は、西多摩が産地であった。大正7年(1918)、に国鉄の川崎駅から浜川崎に至る貨物船(東海道本線の支線で現在は廃線)が開通し、石灰石は、青梅鉄道→中央線→山手線→東海道線→川崎→浜川崎というルートで輸送されていた。

しかし、南武鉄道が追加出願していた立川への延伸が実現すれば、輸送距離を大幅に短縮でき、その鉄道を自社の傘下に置くことができれば、安価で安定的な輸送が望める。浅野が乗り出してきたのは必然といってもよいだろう。こうして南武鉄道には石灰石輸送という大きな目的が加わったのである。

昭和4年(1929)12月11日、南武鉄道は立川まで全通し、その翌年の3月25日には、尻手~浜川崎間が開通して新たな石灰石の輸送ルートができあがった。今は都会のなかの小さなローカル線にしか見えない浜川崎支線だが、その役割は大きかったのである。(青梅線→南武線の石灰石輸送については別記事で掲載)

南武鉄道開業時の電車

旅客輸送においては、南武鉄道は当初から電車を用いており、開業にあたり6両の新製車両(1926年汽車製造製)が用意された。車体長は15M弱と現代の車両と比べれば短いが、車体は半鋼製で、当時の私鉄電車の中では標準以上のものであったらしい。その後の増備で同型車は総勢15両となった。しかし、国有化後比較的早い時期に、地方私鉄に譲渡されたものが多く、南武線からは姿を消している。

南武線の旅客輸送量は、1930年代後半以降、それ以前とは比較にならないほど大幅な増加を示すようになった。これは日中戦争開始後、軍需産業を中心とした諸工場が沿線の内陸部に多数立地するようになったことと関係している。拡大した工場地帯の通勤を担い、市域を拡げた川崎市を縦貫する、重要な路線へと発展していったわけである。そうした「発展」が「軍事上必要な」路線として戦時買収へとつながる要因となってしまったことは否めない。こんなところにも戦争の影が潜んでいることを見ると何とも言えない気持ちになる。

南武線の変貌

1970年代の初頭のこと、川崎市内から立川の職場に通う友人が、南武線を「古い、暗い、遅い」と酷評し「朝の通勤時から気分が暗くなる」とぼやいていたことを思い出す。当時の南武線の主力は、旧型国電と呼ばれる焦げ茶色の電車であった、南武線と交差する東急や小田急の垢ぬけた車両と比べて見劣りすることは否めず、同じ国鉄の線の中でも新形電車をいち早く導入した他線区と比べて冷遇されているというイメージがあったことは確かだろう。浜川崎支線を除いて南武線の旧形国電がすべて明るい色の新性能電車に置き換わったのは1978年のことである。しかし、それも他線区からの転入と言う形であり、お古の車両が配属されるという路線と言う印象はぬぐえなかった。

南武線が大きく変わったことを実感させられたのは1989年、新造の205系電車が投入された時である。独自のラインカラーの帯をまいたぴかぴかのステンレス電車がさっそうと走る姿は、それまでの南武線のイメージを一変させたと言ってよいだろう。一言で言えばローカルな路線から首都圏の主要な通勤通学路線への昇格である。

この背景には、沿線地域とりわけ内陸部の住宅地価、人口増加があった。川崎市域を縦貫する唯一の路線としての重要性や東京都内からの放射状にのびる鉄道郭線を連絡する環状線的役割の大きさを考えればようやくと言った感は否めないが、南武線にとって大きな転換点となったことは間違いない。

(八咫烏)

【参考文献】
南武線歴史散歩(鷹書房)
稲毛郷土史(稲毛郷土史刊行会)
南武線 いま むかし(多摩川新聞社)
文化かわさき(川崎市総合文化団体連絡会)

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