筏流しと筏道

江戸時代、多摩川は材木の運搬路として利用されていた。すなわち、奥多摩など上流地域から伐り出された材木を筏に組んで下流の六郷まで運んでいた。古い文献によれば、延享元年(1744)3月、日光御用材を甲州(山梨県)丹波山より伐り出し、また両国橋改修用に多摩郡稲根崎村の御用林より伐り出して、福生村で筏に組み多摩川を下っていたことが知られる。また宝暦11年(1761)には檜原村御用林で伐り出した材木を、拝島あたりで筏を組んで筏流しをしている。これを正式には「川下げ」と呼んだ。この筏流しは、秋の彼岸の頃から八十八夜の頃までの間に限って行われたという。

奥多摩あたりの多摩川の流れは急流が多く、特に鳩ノ巣辺りでは筏を組んでは流せず、材木を一本一本バラバラにして流し、土場(どば)と呼ばれる材木の集積場がある青梅村あたりで筏に組んでいたらしい。その筏3枚をつなぎ多摩川を下り、立川・府中・登戸辺りで泊まりを重ね、4日目に最終地点の六郷に着く。筏乗りの宿泊については、東京側の資料でも、「川向こうの菅・登戸・宿河原には筏乗りを泊める筏宿が数軒あった」と記されており、登戸には上州屋・玉川屋という筏宿があったという。

しかし、筏流しは川の護岸や橋梁、さらには漁業者の仕掛けを破損するなどのトラブルが多数発生していたと言われる。筏には、筏師という筏乗りが乗っていたが、幕府にこれらの筏の運送に運上金を課していた。その運上金の取り立てのために安永年(1773)10月に登戸村に「取立て会所」なるものが設置され、当地で二ケ領六郷両修復惣代を務めていた喜八なる人物が取り立てを行っていた由。

多摩川を下ったその筏師たちが再び上流まで徒歩で帰る道筋が多摩川の両岸にそれぞれ残っており、それを「筏道」と呼んでいる。現在調べた限り、東京側では、六郷道・品川道と呼ばれる筏道がしっかりと残されているが、川崎側ではあまりはっきり残っているところは少ないように思われる。しかし、幸いにもこの中野島近辺にはその痕跡が残されており、サミットストア東側あたりから、カリタス学園の敷地を貫いて、登戸新町から登戸駅近くまでかつての筏道の名残を確認することができる。
下記の地図の赤で示したのがそのルート。青の〇印は写真の撮影場所。

① 中央商店街、くみのや商店前にある説明文

② 説明文と馬頭観音

③ 筏道(上流方向を見る)--- 最近、道は拡幅されてかつての面影はない。

④ 筏道(下流方向を見る)--- 途中でカリタスの敷地を貫き、登戸方向へ続く。(Henk)

参考文献:川崎市史

(Henk)

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