前号で久地円筒分水について書きました。円筒分水が出来る前に、「久地分量樋」があったことに触れました。
その跡地に石碑がひっそりと建っています。

いまはだれも足を止めることもなく、知る人ぞ知るという感じです。府中街道沿いに建つ石碑は、30メートルも離れれば草陰に紛れほとんど見えなくなります。(下の写真のほぼ中央から網フェンス沿いのやや奥手に石碑の頭が見えます。)

大きな街道沿いにぽつんと忘れられたように建つ石碑。かつて深刻な水の争いがあり、それを解決するために人智が絞られました。
久地分量樋は、久地で合流した二ヶ領用水の水を四つの幅に分け、各堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中丘隅によって造られました。しかし正確に分水することは難しく、その後も水の争いは続いたと言われます。そして、昭和16年(1941)、久地円筒分水の完成により久地分量樋はその役目を終えました。
農民にとって死活問題だった水の確保。それがどんなに深刻なものであったかに思いを馳せたとき、筆者はなぜか、「我田引水」という言葉を思い出しました。
「 久地分量樋」跡の地理情報

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