花と神話~ミルラ

もうすぐ冬になる頃で、木々の葉はすべて落ち木枯らしが吹き荒れている季節のことでした。アラビアの南、サバ地方でのこと、一人の身重の女性が歩いていました。服は破れ汚れていましたが、もとは高価なものだったことがわかる服でした。彼女の顔もやつれ、汚くなってましたが、どことなく品があって高貴な生まれの女性であることがわかりました。

実はこの女性はアッシリア王テイアス(キュプロス王キニュラまたはシリア王とも言われます)の女王スミュルナ(ミュラー)で、ギリシャ神話の中で最も美しい青年と言われるアドニスの母親となる人でした。ちょうど9カ月前に家を出て、その間諸国をさまよい歩いてサバ地方にたどり着いたところでした。

スミュルナはバラのように美しく、ユリのように優しい娘でしたから、大勢の若者が彼女を求め集まってきましたが、彼女はそうした若者にはまったく関心を示しませんでした。彼女は一人の男性に恋焦がれて日夜苦しんでいたのです。その相手が誰であるかは誰にも明かしませんでした。というより、明かすことはできなかったのです。その相手というのは、自分自身の父親だったからです。

なぜこんな恐ろしいことになったかについては、いろいろ言われていますが、一説によれば、スミュルナの母親が愚かな女だったからと言われています。自分の娘が美しいことを自慢して、
「私の娘の美しさは美の女神アプロディーテ様の比ではありません。あの子より美しい人はこの世にはいないでしょう。」
と、世間の人々に言いふらしていたのです。そんな屈辱を受けてアプロディーテが黙っているはずはありません。復讐心に燃えたアプロディーテが、スミュルナが父親を恋するように仕向けたというのです。またアプロディーテを祭る儀式を怠ったために女神の怒りをかったという説もあります。

いずれにせよアプロディーテの画策で自分の父親を恋い慕うようになったスミュルナは、ある夜、明かりがなく真っ暗な父親の忍び込みました。酔っ払っていた父親は変装しているのが自分の娘であるとは気づきませんでした。こうした行為は12日間も続きました。そのうち自分をこれほどまでに恋い慕う娘がどんな顔をしているのか知りたいと思った父である王は、娘の顔に燭台を向けたのでした。そのときの王の驚きと怒りはどれほどだったでしょうか。誇り高い王は、
「もし子供が生まれれば、それは我が子にして我が孫である。そんな恐ろしいことは耐えられない。」
と刀をとると娘に切りかかりました。危ういところで娘は王の寝室から逃げ出すと、そのまま長い放浪の旅に出たのでした。

サバの地にたどり着いたとき、彼女はもう一歩も勧めなくなっていました。野原に身を横たえ、今更ながら自分の犯した罪の深さを恐ろしいと思いましたが、今は生きることも死ぬこともできなかったのです。ただひたすら神に許しを願い祈り続けることしか彼女にはできませんでした。不憫に思った神は彼女を一本のミルラの木に変えてやりました。彼女の足は大地に根付き、胴体は幹に、手は枝となって葉を茂らせました。

しかし彼女の胎内では子供が育っていたのです。木の中央部が異常に膨らんでいき、やがて生みの苦しみが始まりました。枝は垂れ下がり、悶え苦しんでいるかのように震えていました。葉から落ちる露はまるで涙のように見えました。その様子を見たお産の神エイレイテュイアはさっそく彼女のもとにやって来て、お産を助けてやりました。こうしてアドニスが生まれたのです。

 

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