私のふるさと~東京都新宿区四ツ谷の思い出(その4)

私の生まれは鹿児島県いちき串木野市(昔は金山と遠洋マグロ漁で栄えた港町)。鹿児島中央駅から約40分。東シナ海に面した現在人口約3万人の小さな町。
私は戦後昭和23年に町外れの海岸通りにある小さな自転車屋で4歳上の姉の弟(長男)として生まれた。実際は私の上にもう一人の姉と兄がいたのだが、生まれて数年で病により他界。戦後直後で医療は少なく、小さな病気でも亡くなることが多い時代だった。

父は10代後半の時に一人中国の北部奥の満州に渡り、満州鉄道で仕事し、一時帰国で妻を娶り、長女が生まれ、終戦後、全ての財産もお金も便所に捨てて、死を覚悟しながら着の身着のまま家族を連れ、辿り着いた朝鮮から船で日本に引き揚げた。そして戦後の鹿児島で苦労の中で私が生まれた。

その時の父が始めた自転車修理屋の目の前は海で、横が川。3歳の時、私は引き潮の時にひとり堤防を乗り越えて浜に降りて遊んだ。ある時に、潮が満ちてきたので戻ろうとしたが、遠く離れて歩いたので、浜に降りた時のハシゴが見つからず、潮が胸まで迫った時、心配して私を探していた近所の人が見つけてくれ助かった。

田舎の町の人情は厚く、私は長男として皆さんから大切に扱われた。父は苦労が多く、毎晩少しの鹿児島芋焼酎をお湯で割り、時間をかけてチビチビ飲んでいたのを記憶している。

父は繁田家の十人の子の末っ子として生まれたが、すぐに裕福だが子のできない東(ヒガシ)家に養子に出された。しかしその時の父がすぐに他界し、また出戻りで繁田家に戻された。兄と姉に囲まれて常に大人しく、皆の顔色を見ながら育ったようで、その結果18歳の時一人で満州に渡ったようだ。

父は常に謙虚に、人一倍仕事して自分の将来を夢見ていたという。その精神を私に受け継がせて「若いうちに外を見なさい」と私が学生時代に欧州2ヶ月の一人旅の費用を出してくれた。

父は満州から帰国後に生まれた長男の私に対する期待が大きく「賢ちゃんは長男だから、お風呂は私の次に入りなさい」そしてご飯のオカズも多く、三輪車も持たせ「人に優しくしなさい!でも喧嘩に負けるな!」そう育てられた記憶だ。

昭和26年頃、まだ終戦直後で、小さな町では商売が厳しく、父は親類を頼って仕事を得て一家で豊島区の池袋から一つ目の駅(椎名町)へ引っ越した。その町も近所隣組の絆が強く、助け助けられ、ご飯のおかずのやりとりや、お互いに衣類の回し着は当たり前の時代だった。

西武線の終点に豊島園が出来た頃で、近所さん達とおむすびを持って電車に乗って行ったことが大きな楽しみで思い出だ。

椎名町小学校の1年生の時、家族で四ツ谷にある社宅へ引っ越した。引っ越した後も、私はひとりで椎名町まで歩き、ご近所さんの家に遊びに行き、時には泊まり、また歩いて帰った。昔の人々の人情は厚く、沢山の事を学ばせてもらった。

先日訪れたが、街の様相がすっかり変わり、分かったのは小学校だけだった。

中三の3学期に川崎市中原区に引っ越し、県立新城高校時代に中野島に引っ越し、44年前に脱サラして梶が谷駅前に化粧品店を開いた。2年前(今73歳)から二人の娘に経営を任せ、私は雑用係として毎日こき使われながらも、自由な時間に車やバイクで国内海外を一人旅や、音楽や、クラシックカーラリーへの参戦も。

25年前に現在の新多摩川ハイムを中古で購入し、現在は家内と犬と猫と落ち着いた生活を送っている。

長々と稚拙な文で、私の個人的な故郷と人生の一端をお読みいただき、ありがとうございました。<終>

東 賢太郎

 

 

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