シンゴ歴史めぐり12 家康のつぶやき ザビエルと対談の巻 その2

米朝     はい、それでは、休憩後は、秀吉さんとキリシタンとの関係について話してもらいます。 

信長さんのあとを継ぎはった秀吉さんは、最初はキリシタンを受け入れておったんでありますが、九州の島津さんをやっつけられた1587年に、博多で突然にバテレン追放令を出さはったり、お亡くなる前の年の1597年には長崎で26人ものキリシタンを処刑してます。

           なにが一体、太閤さんちゅうか、秀吉さんをそのようにさせたんでっしゃろか。

家康     1587年の秀吉様のバテレン追放令については、日本史の不思議のひとつに数えられております。

私はその原因は次の三つではないかと愚考致す所存でございます。まず第一は、薩摩の島津家が降伏し、九州が平定され、秀吉様は次は朝鮮へ出兵すると計画されており、イエズス会や、ポルトガルの商人に朝鮮半島に兵隊が渡る船を提供するように要求したのですが、それが体よく断られたことではないでしょうか。第二としては、キリシタンたちが神社仏閣を遠慮なく壊していたことです。九州は天孫降臨した地があり、宇佐八幡宮、大宰府など大寺、大社があり、寺社の影響力の強いところでした。被害にあっていた有力寺社のどなたかが、秀吉様に寺社破壊はキリシタンがおこなっていると話したからではないでしょうか。

そして、第三は、秀吉様の部下の方々には多くのキリシタン大名がおられ、領民にキリシタンになるように強制していたようでございます。大名の主人は秀吉様であるべきなのに、それを飛び越して、大名が南蛮の神を主人とすると、秀吉様は統治ができないのでございます。

これは現代でも、会社や役所で社長や局長の言うことを聞かないで、実力ある会長や顧問の指図を仰ぐものと同じ構図であると存じます。それで秀吉様はキリスト教の流行に疑心暗鬼になられたのではないかと思います。その他としては、当時、ポルトガル商人は日本人を奴隷として中国や東南アジアへ連れて行っており、それらがバテレンの仕業と思われたのではないかと考えます。

ザビエル しかし、私は秀吉さんのバテレン追放令は形だけであったと聞いてます。

1587年にバテレン追法令が出て、日本を本当に出て行ったものはほとんどいません。反対に、追放令が出て、司祭や修道士たちが平戸や長崎に集まってきたので、九州の島々でゆっくりと、こまかく布教ができ、信者が増えたのです。

米朝     たしかに、イエズス会の方々は寺社を破壊したり、仏像を焼いたりしておられたようでんな。       

この逆のことを本国でされたら、腹が立つとは思わんかったんでしゃろか。

ザビエル 当時私たちはカトリックだけが、世界でただひとつのすばらしい宗教であると信じていました。

主こそが、世界を創りたもうた唯ひとりの神で、仏教や神道、イスラム教、ヒンズー教などは悪魔の宗教、つまり邪教であると信じていました。

米朝     そして、こっちに来はって、今でもそんなふう考えてはるんでっか。

ザビエル こちらに来て、Mr釈迦、Mr.空海、Mr. 最澄、そしてMr. モハメッドなど、多くのひとたちと話して、宗教の求めるものは、皆同じだと思います。山のテッペンに行くために、ふもとからいろんな道があり、人それぞれが、自分にあった道を選べば良いと思うようになりました。

米朝     当時のイエズス会の布教は平民よりも、領主をまずキリシタン化することが重点においてはったそうでんな。

ザビエル そうです。われわれイエズス会の創始者は最初に言ったように元軍人です。

当時のローマ教皇、ポルトガル国王からまかされて派遣されたわれわれは軍隊的な組織でした。戦争のゲームである西洋のチェスも日本の将棋も王様を射止めれば勝ちとなります。そして、日本のことわざにも「将を射んと欲せば、まず馬を射よ」というのがあります。日本という将を得るには、まず領主という馬を味方にしようと考えていました。私たちイエズス会は昔から世界のあちこちに学校も作っています。日本にも今でもたくさんのイエズス会が作った学校があります。

米朝     秀吉さんの追放令が出てから10年後、秀吉さんが亡くなる一年前の1597年に、

長崎でしなはった26人ものキリシタン処刑についてはどうでっか。

家康     あれはたしか、サン・フェリーぺ号事件が発端でございましたな。       

ザビエルさん、これにはちょっとポルトガルとスペインの関係について説明が必要でございますよね。

ザビエル 米朝さんも、知ってると思いますが、そのころはローマ教皇が世界を二つに分けてスペインとポルトガルが治めてよいというルールでした。

1494年のトルデシーリャス条約です。 スペインはヨーロッパから西へ、ポルトガルは東へ進みました。それで、私たちポルトガルは日本に着いたのです。そして、スペインは西へ、西へと進みメキシコを植民地にして、南アメリカのマゼラン海峡を通り、太平洋を越えて1565年にフィリピンに到着しました。1571年にマニラを首都として植民地化しました。そして、次は日本や中国を狙っていたのです。日本とフィリピンの貿易は1585年ころから始まり、秀吉さんが九州の島津をやっつけた1590年ころ、フィリピンにいたスペイン系修道会の宣教師たちが日本に入ってきました。秀吉さんも貿易がしたかったので、スペイン系修道会に布教の許可を与えたのです。スペインにはブルファイト、つまり、闘牛があり、激しい人が多いです。宣教師も同じです。それまで、おとなしく静かに布教をしていたわれわれイエズス会とぶつかるようになりました。

家康 そして、フィリピンからメキシコへ行く航路は、最初はインド経由の大回りだったのですが、フィリピンから北上し、黒潮に乗り、日本の東北あたりから太平洋の北を回ってメキシコに行く航路を見つけたのであります。

そして、1596年にメキシコに向かったサン・フェリーぺ号が、台風に遭遇して高知に漂着したのでございます。 その時に、現地に派遣された役人が、船員から事情徴収をすると、スペインはまず宣教師を尖兵として送って侵略の足掛りとしたあとに軍隊を出して植民地化していったのであると、話したのでございます。その報告を聞いて、年を取られた秀吉様はカッーとなされ、勇名無実となっていたバテレン追放令を再公布されるとともに、都で目立って活動していたスペイン系の修道士たちを長崎に送って処刑されたのでございます。
ザビエル しかし、この処刑でイエズス会のメンバーも3名なくなりました。その3人は処刑者リストを作るときの間違いで犠牲となったのです。

米朝 ということは、日本には最初はイエズス会だけが入ってきて独占していたんが、そのうちスペイン系の修道士たちもやって来て、宗派の布教競争になってもたということとでおますか。

ザビエル そうです。スペインの修道士はわれわれと違って、貧しい人々に布教しようとしました。

それでお金が無くて手当てを受けられない人々に病院を建てたりしました。またわれわれは布教するためにはお金が必要で、それはマカオからのポルトガル船による貿易からの手数料を稼いでいました。スペインはその貿易にも加わろうとしたのです。特にスペインがポルトガルを合併した1580年から1640年までは、スペインの宣教師たちは、イエズス会なにするものぞといった感じでした。日本に溶け込もうと静かに活動しているイエズス会が生ぬるく見えたのです。

家康 秀吉様が亡くなれたのは1598年11月でございます。

実を言いますと、私はその一ヶ月後の12月には、伊勢に潜伏しておりましたフィリピンのフランシスコ会の宣教師を伏見城に呼び、フィリピン総督にスペイン船の浦賀寄航とスペイン人の鉱山技師の招聘を依頼したのでございます。そして、その見返りとして、その宣教師には江戸での土地提供をいたしました。
そして、その土地に建てたスペイン系修道士教会は1599年に初ミサを行っております。

ザビエル  家康さんは、さすが、きつね、いのしし、いや、たぬき親父でございますね。

われわれの上を行っています。しかし、家康さんにはイエズス会にもたくさんの寄付をしてもらいました。ダブル・タング・ディプロマ、つまり、二枚舌外交をしていたのですね。これは、今の日本の政治家のひとたちが家康さんにたくさん学ぶべきです。

米朝 しかし、家康さんは、なぜ鉱山技師の招聘をお願いしはったんでっか。

家康 当時、私は貿易通貨となる銀を産出する山の開発をしておりました。

江戸幕府が出来るまでは鉱山はその地の大名のものでしたが、幕府はそれらを直轄地と して幕府の収入としたのでございます。スペインは占領したメキシコでの銀山開発の最新式の技術を持いたのでございます。

米朝 その銀ですが、日本人は金よりも銀に重点をおいておって、外国に金を安く買われて持っ て行かれ、それが明治時代まで続いておったとお聞きしています。

それはまた、別の機会にさせていただくとして、日本を独占しておったイエズス会の内部でも、いろんな意見の対立があったように聞いておりますが。

ザビエル  それは大きく言えば、まず日本をポルトガルの植民地にすべきかどうかということです。

しかし、これは私も、そして10年に一回ゴアから巡察でやってこられたヴァリヤーニ師(1539年~1606年)もそれは無理であるとして却下しました。次に、日本でキリスト教を広めるために日本人宣教師を育てるべきかどうかということでございました。宣教師の中には日本人は傲慢である、神の霊性もたないなどと言って、一切ポルトガル語を教えないと主張するものもおりましたが、私や、ヴァリニャーノ師は日本人を高く評価しておりました。 それでヴァリヤーノ師は少年使節団をローマまで送ったのです。あれはたしか、信長様が本能寺で殺されるちょっと前でしたから1582年です。 信長様はヴァリヤーノ師から、西洋の歴史も聞きたがりました。それで師は信長様にローマという国がどんな政治をしていたかを説明しました。師は時間がなかったので、西洋の歴史の本をフロイスなどに渡して、彼らからも説明するように言ってゴアに戻りました。
また、先ほどから話にでておりますフィリピンのスペイン系の修道会と一緒に日本で活動すべきであるとの意見もスペイン出身のイエズス会の司祭からでておりました。

米朝 ということは、家康さんの時代になりますと、世界情勢が大きく変わってきておるちゅうことですわな。

そのエエ例が家康さんの家臣となられたアダムスさん(1564年~1620年)ですわ。イギリス人やのに、オランダの船に乗ってやってこられたお方です。家康さんは、このアダムスさん、日本名三浦按針さんを大変信用されておられましたな。

家康  アダムスは軍人でもあり、船の設計もでき、数学者でもあったので私の知識欲を満たしてくれる家庭教師のようなものでございました。

外国人を家臣にして領地を与えたのは日本の 歴史の中でも私だけではないでしょうか。アダムスについては皆さん良くご存知だとおも いますが、アダムスと同じ船に乗っていたヤンヨーステン(1556年~1623年)も家臣にしました。ヤンヨースチンは耶揚子、「やようす」と呼ばれておりましたので、江戸城内の彼の屋敷のあった場所が現在では八重洲と呼ばれるようなりました。そして、ヤンヨーステンは私が始めた朱印船貿易を行いました。そして、年をとり、望郷の念が強くなり、オランダに帰国しようとしてバタヴィア、今のジャカルタでございます、そこに渡りましたが、なかなかはかどらず、帰国をあきらめて日本へ帰ろうとする途中、船が座礁して溺死してしまいました。

ザビエル  ポルトガルはアダムスさんから侵略者と呼ばれてたいへん困りました。

オランダやイギリスはキリスト教の布教とは関係なく、商売だけで日本にやってきたのでポルトガルと日本の貿易も先細りとなりました。そして、日本の西洋との貿易の相手国が最後にはオランダだけとなったことは皆さんが知ってるとおりです。

米朝     お二人のお話が、「秀吉さんのころ」を過ぎて、家康さんのころの話に入ってきております。

このまま続けさせてもらいましょか。え~、そのポルトガルとオランダの関係でいいますと、そのころのオランダ船は海賊船みた    いなものやったようでんな。そのオランダ船に追われてやってきたポルトガル船が長崎で    日本の大名に爆破されてもうて、それに家康さんも関係しはった岡本大八事件というものがおましたな。

家康     これをお話しますと、またちょっと長くなりますがよろしいでございますか。

私は今の南ベトナムにあったチャンパと言う国と国交を開こうと、私の書簡と贈り物を肥前の有馬晴信(1567年~1612年)が派遣した船に持たせました。晴信にはその有馬船で私がほしかった香木の伽羅(きゃら)を買ってくるように申し付けておりました。その有馬船がチャンパからの帰りに、マカオに寄り、日本へ吹く風を逃して、マカオで越年してしまったのでございます。たしか、1608年のことでございます。そのときに有馬船の船員たち100名ほどが現地で暴動を起こし民家に立てこもってしまっ たのでございます。マカオはポルトガルの統治するところでしたので、ポルトガル人治安責任者が暴動を起こ   した有馬船船員に降伏するように勧告しますと、半分は投降し、半分が抵抗し民家に立てこ          もってしまったのでございます。それでポルトガル人の治安責任者は立てこもった残りの船員たちを強引に射殺してしまったのでございます。そして、翌年、マカオから長崎にポルトガルの定期船が出ました。その定期船の船長は今お話したマカオのポルトガル治安責任者が兼任していました。        そして、長崎に着きますと、恒例により船長が駿府の私に挨拶に来ました。しかし、そのマカオでの事件については一言も話がでませんでした。一方、有馬晴信はマカオから帰ってきた生き残りの部下から、マカオでの出来事の一部始終を聞くと、私のところに飛んできて、その報告をしました。私は伽羅が手に入らなかった悔しさもありますが、そんな日本人虐殺の事実を私に知らせなかったポルトガル人船長に腹が立ちました。と、いいますのは、そのちょっと前に同様の事件がフィリピンでもあり、スペイン人のフィリピン総督は正直に報告してくれていたのです。それで私はフィリピン総督には外地で起こした日本人の狼藉には現地の法律を適用せよと        申し付けたばかりだったのでございます。それで、私は有馬晴信にポルトガル船長を尋問して何ゆえに問題を隠したかを聞き出せと申しつけました。

ザビエル  まあ、このようなことは私たちイエズス会が関知しないところでございます。

家康     晴信がマードレ号の船長を詰問しようと長崎に参りますと、船長は身の危険を感じて、船を港から出して立ち去ろうとしました。

それを有馬の部下たちが小船で囲んで攻撃したのでございます。船の規模が違いますので、なかなかマードレ号を攻めることが出来ませんでしたが、小競    り合いの最中にマードレ号から投げようとした爆弾が船床に落ち、火薬に引火して火災を起こしてしまったのです。それで、船長は覚悟して火薬庫に点火し、マードレ号は爆発し、沈没したのでございます。

米朝     それとあの有名な岡本大八事件とはどのように関係しますのやろか。

家康     その後のことでございます。

私の重臣の本多正純(1565年~1637年)の部下の岡本大八が有馬晴信をそそのかして賄賂を取っていたのでございます。そのそそのかしとは、晴信のマードレ号を焼き討ちの手柄を大八が、この家康に報告し、当時鍋島藩のものになっていた旧有馬領を晴信に返還させてやると伝えていたというものでございました。しかし、そのような事実は一切ございませんでした。晴信は息子夫婦をともなって幕府に旧領返還の確認に来たのでございます。と、いいますのは、晴信の息子直純(1586年~1641年)は、私のひ孫の国姫(1595年~1649年)を妻にしていたのです。さあ、旧領を返還するとは、ありもしない話でございましたので、こりゃー大変ということで、訴えを厳しく吟味いたした結果、岡本大八の収賄が明るみにでて、喧嘩両成敗で大八は火刑、晴信は斬首となりました。晴信は武士ですから切腹するのが本来ですが、キリシタンでしたので自殺は駄目ということで、部下に首を切らせたのでございます。

米朝     そんなことがあったんでおますか、知りませなんだわ。

家康     いやいや、問題はそれからでございます。大八もキリシタン、晴信もキリシタンでございました。

それで、キリシタンが大勢幕府内に入って来ているのではないかと不安になったのでございます。それで、私は駿府の城の家臣たちにキリシタンがいないかを調査させました。          すると、出るわ、出るわ、キリシタンが一杯出てきたのでございます。それで、その者たちに棄教を迫り、ある程度の人数がキリスト教を棄てたのでございますがそれでも棄教しなかった者が家臣で14名、奥女中で3名もいたのでございます。私はショックでございました。その時は自分でクスリを煎じて興奮をおさめ、駿府、江戸、京都など幕府領内でのキリシタン禁止令を出したのでございます。それは1612年4月のことでございました。

米朝     あれでございますな、家康さんは三年後の1615年に大阪の陣を計画しておったために、そのキリシタン禁止令を出しはったという噂もおます。        

と、いいますんは、秀吉さんの部下には多くのキリシタン大名がおられたんで、その息の掛かった人たちが大阪城の秀頼さんのもとに味方すると思われていたからですわ。

家康     そのように言うものがいたとは聞いております。が、それはまだ先のことでございました。

           1612年の時点ではそのようなことは考えておりませんでした。

米朝     はい、それでは、ここでまた休憩をさせていただきます。

そして、その後は家康さんがどのようにキリシタン禁止にしていったかなどにつき、お二人にお話をお聞きしたいとおもいます。

(その3へ)

つづく

丹羽慎吾

 

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