おぼろげ記憶帖 08 大阪の町

首都圏東京の面積の広さに比べて大阪は日本第二の都市といわれていますがぐっと狭いのです。そのまた中心地というのは南北の地下鉄の駅でせいぜい7つ。すぐに走り抜けてしまいます。

その中心地は南北に御堂筋・堺筋の大通りが突き抜け、東西に4本の川が流れています。川の間がほぼの境界線になっていて北・中心の核の土地・南の3つに分けられます。

北は日本一長い天神橋商店街、通称十丁目筋が1丁目から9丁目迄その距離は地下鉄にして二駅半もあります。
2丁目の日本三大祭りの天満の天神さんを囲んで多種多様な店がぎっしりと並ぶ庶民的な商売人の町。同級生の家の稼業も様々で建築屋・大工さん・電気工事・材木屋・塗料屋・ガラス屋・畳屋全て整っていてすぐにも家が建てられそうでした。産院も葬儀屋さんの友達もいて半径徒歩15分以内でなんでも揃いました。我が家のようなサラリーマン家庭の方が珍しい土地でした。

そして夜の社交場、料亭やバーやレストランのひしめく北の新地。大川を渡れば中心地。

市役所・公会堂・裁判所。東には少し小高い上町台地に大阪城がそびえたち、傍に府庁・NHKなどの官公庁が集まっています。道修町の薬・船場の繊維業界という昔からの商いを含む大阪商業の中心地です。

そこから南へ下るとまさに南。心斎橋筋から道頓堀・難波までは歌舞伎座を始めいくつもの劇場があります。ちょっとおしゃれな買物をし、芝居を見て食事を楽しむ。気の置けない超賑やかな楽しい街です。大阪を離れてもう何年にもなりますから今はもう私の記憶からすっかり変わった街になっていることでしょう。時々テレビで道頓堀のあの電飾広告を見て思いを馳せています。

豊臣秀吉がその昔碁盤の目のような大阪を作りました。京都ほどではありませんがお蔭で地図は解りやすくて、我が家は、
「十丁目筋の3丁目当たりの1本東側、天神さんの裏門筋の寺町筋に付き当たった所」
という具合です。

それが第二次世界大戦で大阪は丸焼けになりました。復興するに従い街の様子も変わっていきました。

何時の頃か区割りが編成されて私の生まれた所と育ったところが同じ北区になっていました。町名も紅梅町というあでやかな名前から(とても気に入っていたのに!)天神橋3丁目になりました。

そして最近2度の大阪都構想の住民投票が行われました。結果は反対多数で実現はされませんでしたが戦後75年の今、もし大阪都構想が実現していたらどのような変化をもたらし、どのように発展していったであろうかと、高みの見物ながら見てみたい気持ちでした。

AZ

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Optionally add an image (JPEG only)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください