シンゴ歴史めぐり12 家康のつぶやき 三英傑と天皇の巻 前編 (2015年7月記)

江戸幕府は将軍の世でありましたが、明治からは天皇の世となりました。
そういえば、天皇が亡くなってからつける「おくり名」が明治以降は元号に代わりましたね。
一世一元制です。味気ないですね。元号でなく神武だ、天智だ、天武だという風格のある名前や、生前の宮所や京都の通りをあらわす嵯峨、冷泉、一条、九条とかが懐かしいですね。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇と呼ばれるのは亡くなってからのことで、生きておられるときは
今上天皇と呼ばれるのですね。
それぞれに睦仁(むつひと)、嘉仁(よしひと)、裕仁(ひろひと)、明仁(あきひと)と名前があるのですよね。でも、天皇には名字がないのでございます。
これはインドネシアで名字のないスカルノ、スハルトというのと同じでございましょうか。

と、お話しておいて、ご存知でしょうか、これらの天皇に私の遺伝子が入っていることを。
いや、私ばかりでなく、信長様、秀吉様、それに光秀様の遺伝子も忍び込んでいるのでございます。
えっ、そんな馬鹿なってですか。ウソでしょうって。いいえ、しっかりと入っているのでございます。
信長様のはあの次男の信雄(のぶかつ)から、秀吉様は直接ではございませんが姉上のお子様の秀勝様から、そして私のは次男で二代将軍の秀忠、次女の督姫、九男の尾張家の義直、十男の紀州家の頼宣から、そして光秀様のは娘のガラシャ夫人からのルートでございます。
私たちの遺伝子が天皇に向かって走りだしたことは、私にとっては想定外でございました。でも遺伝子にとっては想定内のようでごあいます。なぜかといいますと、それはいずれ申し上げます。
あっ、そうそう、信長様の妹様のお市様と浅井長政様の三女のお江は今述べました秀吉様の甥の秀勝様との間にできた娘から、そして彼が朝鮮で戦死して、我が息子秀忠の妻になりもうけた3代将軍家光を経由して天皇家に遺伝子を送りこんでいるのでございますよ。
そのややこしい系図を作成しましたので、まずは全体図をプロジェクターでご覧頂きながら、今上天皇に至るまでの数々の物語をお話していきたいと思います。
天皇に遺伝子が伝わっていく間に、それぞれの時代において、お家騒動、仇討ち事件、武家から公家への移り変わり、日本の結婚の形態、そして明治維新での公家のかかわりなどをよくご理解いただけるようにお話するつもりでございます。
まずは信長様から天皇への遺伝子でございます。
信長様の正室は政略結婚をされた斉藤道三の娘の濃姫が有名でございますが、信長様が一番愛されたのは側室の生駒吉乃(きつの)様だと思います。
吉乃様は運送業者をしていた生駒家の娘で夫を戦争で亡くし、実家に戻っていたところ、そこに秀吉様や蜂須賀様たちが出入りしていて、彼らの紹介で信長様に見初められ側室になった方でございます。
お二人の間には長男信忠(1557年生)、次男信雄(1558年生)、長女徳姫(1559年)が生まれております。ちなみに信長様と濃姫との間にはお子様はございません。
吉乃様は1566年に亡くなられその時には36歳であったとも29歳であったとも言われます。
お子様といえば、信長様の長女徳姫を、私の長男の信康の嫁に迎えました。
しかし、徳姫は尾張出身で三河岡崎での田舎生活が合わなかったのか、信康とその母親の築山御前が武田勝頼に内通し、反織田を組織しているなどと父の信長殿に手紙を書き、それが信長様の逆鱗に触れ、信長様の命令で私は泣く泣く妻と長男を自害させるという結果になったのでございます。ああ、今川義元様の姪であった築山御前はいざ知らず、長男信康のことはいつも心の片隅に残っております。
そして、自害を命じるまでに誰に相談もできず悩んだことは思い出したくもない過去でございます。他の子供たちの誰よりも優秀な長男でありました。
自害させたのは信長様が本能寺で亡くなるわずか三年前でございました。
しかし、そんな徳姫ではありますが信長様の遺伝子を受け継ぐ登久姫と熊姫という二人の孫娘を残してくれました。私は彼女たちを手元に引き取り育て上げ、無事、嫁に出させたことで少しでも信康への罪滅ぼしが出来たと思っております。
信康が生きておれば関が原の戦いもあんなにヒヤヒヤせずに戦えたものと思う次第でございます。

さて、信長様の長男の信忠は1582年の本能寺の変で信長様とともにお亡くなりになりました。
次男の信雄は当時伊賀伊勢地方を治めており、光秀様を打つために京に向かって進軍したのですが、すぐに秀吉様があの中国大返しをされて光秀様を討伐したため途中で引き返しております。
その信雄は私と一緒に秀吉様と戦ったことがあります。1584年の小牧長久手の戦いであります。
それから16年後の天下分け目の関が原の伏線にもなる地味な戦いでございます。
それは、信長様が亡くなられ、秀吉様が天下を取とろう、織田家筆頭の柴田勝家様を滅ぼし、さらに織田家から権力を奪おうとされました。それで恐怖に駆られた信雄が私に応援をもとめてきたため、彼に協力する形で秀吉様の大軍と戦ったのでございます。
しかし、わがまま坊主の信雄は、戦の途中で人たらしの秀吉様の口車に載せられ、一緒に戦っている私に相談もなく、勝手に秀吉様と和睦してしまいました。
まじめに戦った私は一体なんだったのでございましょうね。尾張者の計算高さを見た次第です。
しかし、あの戦いは引き分けのように見えますが、強大なる秀吉軍に初戦で勝利し、私の名を天下に知らしめた大きな効果もあったのでございます。
信雄は1590年の秀吉様の小田原征伐では、少しは手柄を上げました。
そして、秀吉様のご命令で私が関東へ移ることになったので、信雄は私の領地であった駿河への転勤を秀吉様から命ぜられたのですが、それを不服として拒否したため、改易され下野国烏山か那須かに流罪となり、出家して常真と号しておりました。
その後、出羽国秋田、伊予国へも流されておりました。
それで1592年の朝鮮出兵である文禄の役の際に、私が秀吉様と信雄の仲直りの役を果たし信雄は秀吉様に許されて御伽衆に加えられております。
裏切られた信雄を救うなんて、私も人がいいですよね。これが三河者というものでございます。
えっ、実はたくらみがあったのではないかですって。
そうなんです。実はあったのです。それは8年後の関ヶ原の戦いではっきりわかると思います。
信雄は大坂にあって傍観的態度を貫いておりました。
これには石田三成を支持したともいわれますが、実は私が西軍の情勢を密かに私に報告する役割を与えていたのでございます。その時のために信雄にはいろいろ面倒を見ていたのでございます。それが三河者のやり方でございます。
戦後は豊臣家に出仕しておりましたが、1614年の大坂冬の陣の直前にとうとう我が方に参加してまいりました。はやり計算高い尾張者でございますね。
といいますのも、当時、信雄が豊臣方の総大将になるとの噂がでていたので、私が東軍につけば大名に取り立ててあげると誘ったのでございます。それが三河人のやり方でございます。
そして翌年の夏の陣で豊臣家を滅ぼしたあとに、信雄には上野国甘楽郡を、隠居手当てとして大和宇陀藩をとあわせて5万石を与えました。
信雄は領地に風雅な庭園である楽山園を造る一方で、養蚕など産業育成にも力を注いでいたようでございます。そして、自らは京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送っておりました。
当時としては長命で、1630年4月京都北野邸で73歳で亡くなりました。
かくゆう私は1616年の75歳まで生きておりました。あのう、年齢は数え年でございますよ。
信雄の上野国の領地は四男信良が、大和国のそれは五男の高長が引き継ぎました。
その四男信良と五男高長の系列が天皇家に遺伝子を送りだしていくのでございます。

前置きが長くなり申し訳ございませんでした。私にとり信長様は武田信玄様の次にヒーローなのでございます。その信長様の四男信良の天皇への遺伝子の流れは次のようになっております。
織田信長→織田信雄→織田信良→娘→稲葉知通→稲葉恒通→娘→勧修寺経通→勧修寺ただ子→仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→今上天皇
遺伝子は親から子、子から孫へと順々に渡っていきます。
この書き方では配偶者がわかりませんのでプロジェクターの方にはそれを記載しております。
その配偶者の遺伝子も天皇に向かうので、その遺伝子の組み合わせは複雑になります。
またこの信良の系列には信長様を討った光秀様の遺伝子も入っているのでございます。
光秀様の孫娘の多羅が稲葉家に嫁ぎ、稲葉信通を生み、織田信長様の孫娘と夫婦となったのでございます。ここで信長様と光秀様の遺伝子が仲良く合体したわけでございます。  
             
この光秀様の孫娘が嫁いだ稲葉家は、道三様や信長様に使えた美濃三人衆のひとりの稲葉良通の息子貞通が関が原の戦いで私に味方しましたので、美濃郡上藩4万石から豊後臼杵藩5万石に移したものでございます。岐阜から大分に転勤となったようなものでございますね。いや当時のことで、海を渡るのですから海外駐在のようなものでしょうか。貞通の子の一通に多羅が嫁ぎ、その息子の信通に信長様のひ孫が嫁ぎ、知通が生まれました。
その知通の孫娘が藤原北家支流で儒学が家業の勧修寺家(かじゅうじけ)の顕道(あきみち)に嫁ぎ、その間に生まれたのが権大納言、正二位となった勧修寺経逸(つねはや)でございます。
その経逸が迎えた嫁が因幡国鹿奴藩(かぬはん)の池田家の池田数計子ございます。
そして、その二人の間に出来た娘のただ子が光格天皇の女官となり、二人の間に出来ましたのが仁孝天皇でございます。
藤原北家の出である勧修寺家はそれ以前にも天皇の母、つまり国母を二人出している公家なのであります。その国母というのは105代の後奈良天皇の母の勧修寺藤子、107代の後陽成天皇の母の勧修寺晴子でございます。
私はよくは存じませんが、現在、勧修寺玲旺(れお)という17才のイケメン俳優がいるようでございますね。元「モーニング娘。」のメンバーの後藤真希の甥だとのことでございます。

そうして光格天皇に入った信長様と光秀様の遺伝子は、仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→今上天皇へと順々に移っていったのでございます。
しかしあれですな、光秀様のひ孫と、信長様のひ孫が結婚し、天皇家への遺伝子へとつないでいくのは歴史の面白さというか、いたずらというか、不思議さを感ずるしだいでございますね。
なお、この四男織田信良の家系は当初、上野小幡藩主でありましたが、江戸中期に起きた幕府による尊王攘夷弾圧の明和事件に伴い出羽高畠藩主に転封され、さらに陣屋の移転に伴って出羽天童藩主となり、そのまま廃藩置県を迎えております。
これについては、どこかでお話しましたので省略させて頂きます。
あのう、またややこしくて言いにくいのでございますが、勧修寺経逸に嫁いだ池田数計子には、私の次女の督姫と十男の頼宣からの遺伝子が入っているのでございます。
まず、私の次女督姫でございますが、最初の夫は小田原の北条氏五代目の氏直でございます。
1582年に信長様が本能寺で亡くなられると、織田領であった甲斐信濃上野は、私と北条氏の取り合いになりました。
それで私は北条氏と和睦し旧織田領の甲斐信濃は徳川領、上野は北条家の領土としました。
その和睦の条件として次女の督姫を氏直の正室として嫁がすことにしたのでございます。
二人は仲がよく、一男二女をもうけました。
しかし、1590年の秀吉様の小田原征伐で北条氏が滅びました。
氏直は私の娘婿にあたりますので、私が秀吉様に助命嘆願して、切腹することだけは免れましたが、秀吉様の甥ごさまの関白秀次同様に高野山に流されました。
そして、翌年亡くなってしまいましたので、督姫は私のもとに戻ってまいりました。
それから2年後の1594年に秀吉様の仲介で正室を無くしていた播磨姫路藩の初代藩主の池田輝政の継室として嫁がせたのでございます。これもまた、二人は仲がよく、五男二女をもうけました。
あっ、そうそう、輝政の父恒興(つねおき)は信長様と乳母兄弟でございましたが、1584年の小牧長久手の戦いで秀吉軍におり、私の部下の永井伝八郎に打たれ戦死しております。
またまた余談になりますが、輝政は督姫との婚儀が決まったときに、私の屋敷に挨拶に参り、家臣ともどもと宴会となった席で「かつて長久手で私の父の勝入斎(恒興)を討った永井伝八郎はここにいますか?」と聞くので私が「あの隅に控えております」と答え、二人に戦いの当時を語らせました。
そして話しが終わると輝政は私の家老たちに向かい「永井伝八郎の禄高はいくらですか」ときくので「武蔵において五千石です」と家老が答えると、輝政はそれを聞いて呆然して「私の父を討ったものが、そのようなわずかな禄をもらっているとは、父の首はそのような価値しかないでしょうか」とプライドを傷つけられたようにつぶやきました。後に伝八郎は禄高を増やしているので、当時の人々は「輝政に言われて、家康は永井に笠間七万石を与えた」と噂をしました。
しかし、これは事実ではありませんのでここでお断りしておきます。伝八郎が大名になったのは二十三年後の1617年で、私が死んだ翌年でございます。それも笠間三万二千石であり、その二年後に下総古河城に移った時に七万三千石を与えられているのでございます。
爺馬鹿といわれそうでございますが、督姫と輝政との間にできた忠継には山陽道の要所である岡山を与えました。忠継がまだ5歳の時でございます。岡山は、もともと宇喜多家の所領でございましたが、関が原の戦いで宇喜多秀家が西軍に加担したため没収し、秀吉様の奥様の北政所様の甥でありました小早川秀秋が我々に寝返ってくれましたので彼に与えました。
その秀秋が1602年に21歳という若さで子がなくて亡くなりましたので、私の孫の5才の忠継に与えたのでございます。なお、姫路城は輝政と先妻の子である利隆が継ぎ、幼い忠継を補助するかたちで岡山と兼務しておりました。しかし、孫の忠継は17才の若さで子を設けずに亡くなりましたので、同じく督姫から生まれた弟の忠雄に後を継がせました。
この忠継の若すぎる死についてはいろいろ言われました。毒饅頭事件でございます。
督姫が実子である忠継を姫路城主にすべく、先妻の子で、長男の利隆の暗殺を企てたというものでございます。つまり、岡山城に利隆が挨拶に来て忠継に対面した際に、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとしたというのです。しかし、女中が手のひらに「どく」と書いて利隆に見せたため、利隆は手をつけず命拾いをしたのでございます。
そして、その時に毒が盛ってあることを察知した忠継が兄の利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡したというのでございます。
忠継が身をもって兄の利隆を守ったという話でございます。
そのため、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて亡くなったといわれているのでございます。
確かに、忠継は1615年3月22日に岡山城内で亡くなり、督姫は同年3月3日に姫路城内で51歳で亡くなりました。
しかし、約300年後の1978年に忠継のお墓が移転する際にその発掘調査が行われ、その時にこの毒死疑惑を検証するため遺体の調査が行われました。
その結果では毒死の確証は得られなかったのでございます。
生きている人たちはいろんな話をこさえるものでございますね。
そして、忠継のあとを継いだ忠雄も30歳で亡くなっております。
この忠雄も皆様ご存知の有名な事件に巻き込まれているのでございます。
それは映画や劇などで何度も上映、実演された荒木又衛門の伊賀越えのお話でございます。
ちょっと時間が押してまいりましたが、この日本三大あだ討ち話のひとつである伊賀越えについてはぜひ知っておいていただきたく、時間が延長しましてもお話したいと考えます。
時は1630年、岡山藩主忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に、藩士の河合又五郎が横恋慕して関係を迫ったのでございます。ベンベン。
しかし、イケメンの源太夫につげなく拒絶された又五郎は逆上し、なんと源太夫を殺害してしまったのでございます。ベンベン。
どうしても講談調になってしまいますので、興奮しないでお話するように心がけます。はい。
男同士の恋愛というものはすごいものがございますね。日本は昔からLGBTの国だったのでございますね。これは昔は隠されていましたが、現在ではどんどん表に出て、市民権まで得ていますね。
はい、話しを戻します。又五郎は脱藩して江戸へ逃げ、旗本の安藤次右衛門にかくまわれました。
それを知って激怒した藩主忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求しました。
しかし、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまったのでございます。
1632年に忠雄が疱瘡のため30歳で急死するのですが、よほど無念だったのか、死に臨んで、なんと又五郎を討つよう遺言したのでございます。
これに対し幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、池田家は子の光仲が家督を継ぐと、因幡国鳥取へ国替えしてしまいました。
一方、旗本たちには謹慎と、又五郎の江戸からの追放を決定したのでございます。
しかし、殺された源太夫の兄・渡辺数馬はあだ討ちをせざるをえませんでした。
と言いますのは、戦国時代からのあだ討ちの習いとしては兄が弟の、または父が子のあだを討つことは尊属が卑属の仇を討つということで異例なことでありましたが、主君忠雄が遺言で上意討ちの同意を含んでいたからでございます。当時藩主の遺言は主命、至上命令でございました。
それで数馬は国替えに従わず、あだ討ちのために脱藩したのでございます。
そして荒木又衛門の登場となります。と、いいますのは、数馬は剣術が未熟だったので、姉婿で郡山藩の剣術指南役をしていた荒木又右衛門に助太刀を依頼したのでございます。
渡辺数馬と荒木又右衛門は河合又五郎の行方を捜し回り、1634年11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止めたのでございます。
それで又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとしたのでございます。
数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せし1634年11月に河合又五郎を討ち、あだ討ちの本懐を遂げたのでございます。
また、このときの又右衛門は「36人斬り」をしたなどともいわれますが、これは講談などによる誇張でございます。実際に斬ったのは河合又五郎の応援者で、叔父で同じ大和郡山藩の上席剣術師範の河合甚左衛門と尼崎藩槍術師範の桜井半兵衛の2人でございます。
すみません、私はこのような話が大好きですので、テーマである天皇への遺伝子からかなり飛んでしまいました。なお、忠雄の子光仲の次男仲澄は支藩の鹿奴藩の初代藩主となりました。
と、いうことで、天皇への遺伝子は私→督姫→池田忠雄→光仲→仲澄→仲央(なかてる)→仲庸(なかつね)と移っていきました。そして、仲庸の娘、数計子が公家の勧修寺経逸と一緒になり勧修寺ただ子が生まれ、彼女が光格天皇の典侍となり、子を産み仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→今上天皇と繋がっていったのであります。

え~と、この池田家に対し私はかなり思い入れがありまして、何を隠そう私の十男の紀州徳川家初代の頼宣の娘も嫁がせているのでございます。
池田忠雄→光仲→仲澄、、、、と続くなかで、忠雄の母は先ほど述べましたように、私の次女督姫でありますが、忠雄の子の光仲の妻の因幡姫は私の孫娘、つまり、私の十男の紀州徳川家初代の頼宣の娘なのでございます。
先ほどの稲葉家の家系の流れに池田家の家系をつなげると次のようになります。
   十男頼宣は私とお万との間にできた子です。督姫とは腹違いの姉弟になります。
つまり、稲葉姫にとっては父の姉の息子となり叔父と結婚し、池田光仲にとっては父の妹で叔母さんと結婚したことになるのでございます。日本の婚姻形態は複雑でございますね。
また、頼宣の母のお万は……あっ、すみません、お時間が参ったようでございます。
お万についてもっとお話したのでございますが、とても時間が足らなくなりますので、お万の話はここでは省略します。ただ、私が数えで61歳の時に出来た子ともであったことだけ申し添えます。
信勝の五男高長、秀吉様関係、そしてお市の方→お江関係、さらに私の息子たちの遺伝子については、次の会合で述べさせて頂きます。これまた、歴史からいろいろなことが分かるのでございます。本日はいつもより、長いお時間ご清聴いただきましてありがとうございました。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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