シンゴ歴史めぐり16 家康のつぶやき 新元号の巻(2019年4月記)

みなさん、家康でございます。お久しぶりでございます。お元気がいらっしゃいましたか?
はい、ありがとうございます。私も元気に多忙を極めております。
と、申しますのも来年に東京でオリンピックが開催されるためでございます。
東京は昔でいうと江戸でございまして、私が秀吉さまから命じられて移った時はそこは海に囲まれた何もない湿地ばかりの小さな村でございました。
それで私はこつこと背中に重荷を背負うように都市計画を進め、江戸時代には世界に誇る都市となったのでございます。
その徳川の世の後も薩長土肥の官軍の政治家たちがせっせと帝都に作り上げ、関東大震災、東京大空襲にあったにも関わらず、安全で清潔で快適な都市として人々を集め続けております。
その世界的大都市の東京の原点を作った私に世界の各都市からノウハウを教えてくれとの依頼が沢山きておるのでございます。はい。
これは前回の昭和の東京オリンピックの時にも、いくつかの依頼がございましたが、今回はそれを大幅に上回るものなのです。
それで老体にいや幽体に鞭打って世界を飛び回っておる状態なのでございます。

と、前置きはそれくらいにしておきまして、今日のテーマの元号でございます。
日本の新元号が『令和』に決まりました。おめでとうございます。
そして驚いたのでございます。えっ、何にですかって?
『令和』に決まったとお聞きしまして、日本の現在の首相は私と同じ気持ちなのだなと思いました。
と、言いますのは、関ヶ原の戦い(1600年)が終わって徳川の世となった時に、私はそれまでの『慶長』(1596年~1615年)の改元を行いたかったのでございます。
『慶長』は1596年に天変地異がございましたので秀吉様がそれまでの『文禄』(1593年~1596年)から改元されたものでございます。
秀吉様の晩年に行われた朝鮮出兵が『文禄・慶長の役』と呼ばれるのもその年号によるものでございます。余談ですが私は秀吉様に命令され、転勤先の未開地の江戸の整備に忙しいのを理由に朝鮮への出兵はしておりませんことを申し添えます。
さて、私はその秀吉様の作られた年号を早く変えたかったのでございますが、『鳴くまで待とうホトトギス』の心持ちで時が到るのを待つことにしたのでございます。
なぜなら、その時にはまだ秀吉様の子の秀頼が大阪城におり、朝廷が秀頼を公家として扱っておりましたので、元号の制定に秀頼が関わり豊臣色が出てくることを避けたかったのでございます。
それで大阪夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした後すぐに、改元を朝廷に申し入れて、決まったのが『元和』(げんな)でございます。ここまでの説明が長くなり申し訳ございませんでした。
似ておりませんでしょうか、『令和』と『元和』。
『元和』という元号につきましては、私はリーガル・アドバイザーの金地院崇伝(こんちいん すうでん、1569年~1633年、臨済宗の僧)をチーフとするプロジェクトチームを作って、中国のオリジン アンド ヒストリー(故事来歴)などをシークレットでリサーチしていたのでございます。
すみません、最近海外でのセミナーや会議への出席が多くなり、ちょっと英語が混じってしまいました。アイ・アム・ソーリー。総理ではございませんよ。
なお、この『元和』は中国やベトナムでも使われていた元号でございます。
私は改元とともに『禁中並公家中法度』を制定して朝廷、公家の行動を規制する法律をこれまた崇伝に命じて作りました。
と言いますのは私は武家社会が出来上がった鎌倉時代からの歴史を学び、朝廷の政治的関与が幕府と朝廷の二重構造となり治世の混乱を招くと確信していたからでございます。
また朝廷公家への法度だけでなく天下泰平なる世を作るため、私は武家諸法度、一国一城令など武士の規則も作っていることを申し添える次第でございます。
元和年間は1615年から1624年までとみじかかったのでございますが、私の死後も朝廷、公家への対策は幕府により確実に着々と進んで行きました。
また当時の天皇は後水尾天皇(1596年~1680年、在位1611年~1629年)でございました。
大阪夏の陣の前年に私は息子の秀忠(1579年~1632年)の娘、つまり私の孫娘の和子(まさこ、かずこ、1607年~1678年)を後水尾天皇の中宮として迎えるよう朝廷に申し入れたのでございます。まあ、申し入れたと言うよりは強引に嫁がせることに致しました。
正子が産んだ子が天皇になれば、外祖父となる秀忠が幕府ばかりでなく、朝廷においても重要なポジションを占めることになるからでございます。しかし、その時、和子はまだ8才でございましたので正式の入内は私が亡くなったあとの1620年となったのでございます。
と、言いますのは、先ほども申しました大阪の陣の混乱、翌年に私が亡くなり、そしてその次の年の1917年に後水尾天皇の父の御陽成天皇(1571年~1617年)が亡くなったからでございます。
この和子の入内には朝廷や公家からの抵抗が強くありました。
また、和子が入内する前に後水尾天皇の寵愛する女官がすでに皇子を出産していましたので、公家たちが和子の入内に大反対いたしました。
それで秀忠が直接京都に出向き、騒いだ関係者を地方に飛ばし、出産した女官を宮中から追放して和子と後水尾天皇の結婚に至らせたのでございます。
というよりもそのころの朝廷、公家は財政的に窮しておりましたので、幕府からの多額の寄付、贈り物の前にやむなく屈した申した方が正しいかもしれませんね。
そして、1623年に和子が女の子を産みました。
その子がのちに明正天皇(1624年~1696年、在位1629年~1643年)となるのでございます。
この明正天皇への後水尾天皇の譲位にはこれまたストーリーがございます。
それはまず紫衣(しえ)事件でございます。
紫衣とは紫色の法衣や袈裟のことでございます。
朝廷は高徳の僧・尼に対し宗派を問わず紫衣を与える権限をもっておりました。
この紫衣は僧・尼の尊さを表すものであると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあったのでございます。
そして幕府が朝廷に対し紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に報告もなく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えてしまったのでございます。
このことを耳に入れました私の孫の三代将軍家光(1604年~1651年、在職1623年~1651年)は、1627年に朝廷から幕府に事前の報告が無かったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言したのでございます。
それで幕府と朝廷の関係がこじれてしまったのでございます。
その関係をさらに悪化させたのが家光の乳母の春日局(1579年~1643年)の無冠の入内事件でございます。
先ほどの紫衣事件の解決を図るために,幕府は春日局を上洛させたのでございます。
しかし、春日局が無位無官のまま参内したため後水尾天皇は幕府の朝廷に対する横暴があまりに過ぎるとして幕府に何の相談もなく譲位を決意してしまったのです。

なお、明正天皇のおくり名は奈良時代の女帝である元明(げんめい)・
元正(げんしょう)天皇から各1字をとって諡(おくりな)とされたもので
ございます。しかし、私にとりましては、徳川の世が終わったあとに続いた
明治、大正を思い出させるものでございます。勝組みであった維新政府が
負け組の徳川家をおもんばかる思いがあったものと推察しております。

さて、日本の元号は『大化』から『令和』までで248あります。
しかし使われた漢字はこのように73文字しかないのでございます。
一番多い文字が『永』で29回でございます。
次に『元』と『天』の27回、『治』の21回で、そして『和』が今回を含むと
20回となり、『応』と同じ回数になるのでございます。
その『和』の付く年号は和銅、承和、仁和、応和、安和、寛和、長和、康和、養和、正和、弘和、貞和、文和、永和、元和、天和、明和、享和、昭和そして令和なのでございます。
『令』という文字は年号に使われたことがございませんが、実は幕末に『令』の文字が入る年号が第一候補になっていた出来事があるのでございます。
と、言いますのはペリー来航から明治までの元号は『嘉永』『安政』『万延』『文久』『元治』『慶応』と続きます。このなかで『元治』(1864年~1865年)と決まる時にその『元治』は第二候補で、第一候補はなんと『令徳』だったのでございます。
この『令徳』は返り点を打ちますと『徳川に命令する』を露骨に表すことになるのでございます。
この元号は朝廷から持ち出されたもので、当時の徳川幕府の外交に対する軟弱な対応、そして勤王討幕へと移りつつある政治的背景を如実に表しているのでございます。
結局、この『令徳』は幕府からの強い申し入れでなくなり、『元治』となったのでございます。
しかし、これも意味するところは『元にて治まる』つまり天皇の時代になると言う意味でございました。
『令和』は『和に(を)命令する』という意味になりますが、果たしてその和とは何を意味するのでございましょうか?
話しは飛びますが信長様も元号には執着されておられました。
『元亀』(1570年~1573年)から『天正』(1573年から1593年)に変えられたのでございます。
まず『元亀』でございますが、足利義昭が将軍に就任しました際に「元亀」と改元するべく朝廷に相談しました。これに対して、信長様はそれが足利将軍の権威の復活につながることや、正親町天皇の在位がまだ続いているのに必要ないであろうと反対したのでございます。
しかし、将軍義昭は朝廷を説得するために改元費用として朝廷へ多額の献金を行い、信長様が朝倉氏討伐に出陣した4月に改元を実行したのでございます。
信長様にとってこの『元亀』は悪戦苦闘を続けていた不愉快な時期でございました。
それで信長様は義昭追放後に改元を実行させ『天正』としたのでございます。
天正年間になってから信長さまの快進撃は続きました。
が、天正10年(1582年)には本能寺の変で明智光秀に打たれてしまいました

現在の元号は徳川の世が終わり、慶応4年=明治元年の9月に『一世一元の詔』が発せられ天皇一代に元号一つと決められ、明治、大正、昭和、平成となって参りました。
先ほども申し上げました通り元号は248ありますが、天皇は平成までで125代でございます。
最初の元号の大化元年は第36代孝徳天皇が即位してからはじまりました。それ以前は〇〇天皇何年と表記されております。
あっ、それではお時間がまいりましたようでございます。
それでここで本日の家康のセミナーはお開きとさせていただきます。
サンキュー・ベリー・マッチ アンド シー・ユー・アゲインでございます。

つづく

丹羽慎吾

 

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