シンゴ歴史めぐり17 家康のつぶやき 長女亀姫の巻 前編 (2019年5月記)

え~、本日は私の娘たち5人のうちから長女の亀姫ついてお話をさせて頂きます。

お話を始めます前に私の子どもたち11男5女+(次男秀康の双子の相方)がいつ生れ、いつ亡くなったかを表にしてみましたのでご覧ください。

一番長生きをしたのは六男の忠輝でございます。えっ、みなさんご存じありませんか?

1683年に91才でなくなるまでに、徳川将軍5代の世を生きておりました。

忠輝は伊達政宗の愛娘である五郎八姫(いろはひめ)をもらい、越後高田に75万石を与えたのですが、私が亡くなるとすぐに秀忠は忠輝を改易処分にして伊勢に配流としてしまったのです。

そして、あっ、今日は長女の亀姫のお話でございましたね。

忠輝の話はまた別の機会に申し上げることとします。

そしてこの中から娘たちだけを拾い出し、その母親の名、娘たちの生年、私がその時何才だったか、そして娘たちの没年と享年を表にしますと次のとおりでございます。

四女と五女は早世しておりますが、三女までは戦国時代の風にまともに受けた一生を送っております。しかし、あれでございますね、これをあらためて見ますと、最後の市姫は私が64歳の時の子供なのでございますね。お梶が是非とも子が欲しいと駄々をこねたものですから、私もちょっと頑張ってしまったのでございます。お梶も当時で言えば高齢出産の30歳でございました。
お梶は鎧兜を来て戦場に同行した元気な娘でございました。しかし、5女の市姫は三歳で急死してしまいました。生れたばかりでしたが伊達政宗の跡取りと婚約させていたのでございます。
それで、、、え~と、本日は長女の亀姫の話でございましたね。
亀姫は私の最初で最後の正室でありました築山殿との間にできた娘でございます。
築山殿の母親は今川義元の妹とも伯母とも、さらには側室であったとも言われております。
今川に人質でおりました私にとって築山殿を嫁にするということは、現代で言えば、田舎から出てきた新入社員が由緒ある名門企業の重役の娘をもらうような立場でございましょうか。
私は1557年に14歳で駿府で元服し、義元様からお名前を頂いて元康と名乗り、築山殿と結婚したのでございます。
築山殿はそれから二年後に信康を、その翌年に亀姫を出産いたしました。
亀姫が生れましたのは1560年の6月であるとよ~く覚えております。
と、言いますのは、それは桶狭間で義元様が信長様に討たれた月で、私は今川軍として尾張の最前線にあった大高城に兵糧を運ぶロジステックの担当をしていたからです。
しかし義元様が討死にされましたので私は駿府には戻らず、そのまま岡崎の松平家の菩提寺である大樹寺に逃げ込みました。そして、もはやこれまでと思っていた私に和尚から生きろとの言葉を頂き、今川の兵が去った後の岡崎城に入ったのでございます。
和尚の言葉は皆さまがよくテレビや映画でご覧になる私の旗印「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」でございます。
駿府に残った築山殿と信康、亀姫はその後に今川の重臣の城を落とし、そこの討ち死にした城主の幼子と久松家の私の義理の弟の康俊を加えた人質交換で取り返したのでございます。
そして私は信長様と同盟を結び、信康には信長様の姫を迎えることにしたのでございます。
これも私にとりましては飛ぶ鳥を落とす勢いの新興企業の社長の娘を長男の嫁を迎えた中小企業の社長のごとき心持ちでございました。
信長様の姫は1567年に輿入れしてまいりました。
しかし、築山殿と嫁の関係は良くなく、嫁は二人の姫を産んでくれたのですが、跡取りとなる男の子はなかなか生れませんでした。
すると築山殿は自分の孫に織田の血が入ると、自分の出である今川家の復興ができなくなると思い悩み、信康に今川から、側室を取ろうとしたようでございます。
いや、まだ力のあった武田からの側室だったかもしれません。
それが嫁の口から父の信長様に伝わり、信長様の命令で築山殿と信康を私は処分せざるをえなくなりました。それは1579年の8月ごろでございました。
しかし、信康が居なくなると信長様の血筋が徳川に入らなくなるので信長様がそんなことを言うはずがないと思い、あとで信長様に直接に伺うと、「処置せよと申したが殺せとは言っていない」とのお言葉でございました。その時には私は目の前が真っ暗、いや頭が真っ白になりました。
実は私も信康に付けた側近には信康を殺してくれるな、どこかに逃がしてやってくれと暗に申し伝えていたのでございますが、信康は母である築山殿が殺されたことを知り、自害してしまったのでございます。
それで私は信康付の側近たちを降格人事やお家断絶の処分にいたしました。
その中のひとりがあの石川数正でございます。数正は私の宿老で、信康を私の跡取りとすべく後見人を務めておりましたので、信康自害の時の私の裁定に不満を持っていたのでしょうか、後に秀吉様の元に寝返って行ったのでございます。
信康が生きておればあの関ヶ原の戦いで秀忠のぶざまな戦いを見なくて済んだものをといつも後悔しております。はい。
なお、信康に男の子が生まれますと織田家が徳川家を牛耳ってしまうのではないかとの心配は私も少しはございました。
それでその年の5月に私に三男の秀忠が生れておりましたので、私が徳川家の跡取りの心配が亡くなり信康を自害の追い込んだのではないかという根も葉もない噂も立ったものでございます。
このような噂が出るというのも私の徳の無さがなせるものかと反省しております。
ですので、信康が20才で非業の死を遂げたときに亀姫は19才でございました。
亀姫がどのような気持ちを私に抱いて過ごしていたのかを考えるとつらいものがございます。
その亀姫も信長様の命に従い奥三河の奥平信昌(1555年~1615年)に嫁がせるころにしたのでございます。これは甲斐の武田への対策のための政略結婚でございました。
その時はまだ生きておりました築山殿が息子は信長という力のある武将の姫をもらったのに、娘にはなぜそんな山奥の田舎侍の所に嫁にやるのかと不満を漏らしたものでございます。
亀姫が嫁入りしました奥平家は菅沼家と合わせ奥三河で山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれる土着の有力な勢力の一つでございました。
信昌の父の代に山家三方衆は今川に属していたのでございますが、1560年に義元様が桶狭間で信長様に討たれますと、彼らは方針を変えて徳川方につくことにしたのでございます。
しかし、1570年頃から甲斐の信玄様が駿河に向かってどんどんと勝ち進んでまいりますと、今度は徳川から元の武田に寝返ってしまいました。
そして、1573年に信玄様が上洛の軍を起こしましたが、三河まで攻めて来た時にお亡くなりになり、武田軍は信玄様の死を隠して甲斐に向け撤退し始めました。
それを知った信昌の父たち山家三方衆は、またも我が徳川に接近してきたのでございます。
弱小の町工場がその時々の有力企業に原価割れしても売込みを図るのと同じでございますね。
しかし、奥三河は武田の攻撃を防ぐためには重要な拠点であることを私が信長様に説明しますと、信長様は私の長女の亀姫を奥平家の長男の信昌に与えよとの命令を出されたのでございます。
先ほど桶狭間の戦いの後に私と信長様とが同盟を結んだといいました。
それは当時の信長様の居城である清洲城で締結したので清洲同盟と呼ばれます。
当初はイコールパートナーという相互援助契約でございましたが、信長様が天下を目指される内に私は信長様の家来になると言う下請け契約のようなものになって行ったのでございます。
現代の企業の世界でも元請、下請け関係というものは昔と変わらないものでございますね。
それで、私の娘の亀姫は信昌と婚約することに相成ったのでございます。
婚約といいますのは、まだ戦が続いており、そして亀姫が14才で、当時では適齢期ではありましたが、やはり父親として娘を長く手元に置いておきたいと言う気持ちもあったからでございます。奥平家など山家三方衆が徳川に付いたことを知り、武田家の後を継いだ勝頼は激怒して1575年に大軍を率いて長篠城に押し寄せてまいりました。長篠の戦いの始まりでございます。
そして、ここであの鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が登場するのでございます。
えっ、強右衛門って誰ですかって?
強右衛門を知らない人が増えて来たのですね。世の移り変わり速さをひしひしと感じます。
それでは強右衛門物語を簡単にお話しいたしましょう。
勝頼軍が1万5千人という大軍で信昌が守る長篠城を攻めて来たときに信昌の兵はわずか500人でございました。
籠城により織田徳川の援軍を待つ信昌軍は食料も尽きかけてきましたので、信昌は家臣の強右衛門を夜中に城から脱出させ65km離れた私の居た岡崎城に援軍を求めるべく走らせたのでございます。強右衛門が翌日の午後に岡崎城に着いた時には、我が徳川の手勢8千人と織田の援軍3万人がすでに長篠へ出撃する準備をしていたのでございます。
強右衛門は籠城の様子を信長様や私に報告した後で、援軍が来ることを一刻も早く仲間の居る長篠城に伝えたいと考え、来たばかりの道をすぐさま引き返したのでございます。
しかし、長篠城に近づいた時に武田方に見つかり、捕えられてしまったのでございます。
そして、強右衛門は自分が籠城軍の密使であることをはっきり伝えると武田の兵は驚くとともに「お前を磔にして城の前に突き出す、そこで『援軍は来ない、はやく落城せよ』と叫べ、そうすればお前の命は助ける」との交換条件を持ちかけてきたのでございます。
強右衛門には策がありましたので、武田の提案に同調する振りをいたしました。
翌朝、城の前で磔柱に裸で縛られた強右衛門は城に向かって大声で叫びました。
「自分は鳥居強右衛門であ~る。あと二、三日で数万の大軍が助けに来てくれる、それまで、持ちこたえよ~』。つまり、武田の兵の要請とは逆なことを叫んだのでございます。
当然、強右衛門は武田の兵に槍で突き殺されましたが、長篠城に籠っている兵たちは織田・徳川連合軍が来ることを知り、ひもじいながらも我慢する意欲が湧いてきたのでございます。
そして、連合軍が来て、武田軍を撃破するまで城を守り通したのでございます。
岡崎市出身の地理学者である志賀重昴(しが・しげたか、1863年~1927年)はこの強右衛門の話をアメリカのテキサス独立戦争の時のアラモの砦とよく似ていると述べております。
メキシコ軍7千人に対し、テキサス軍185人が13日間にわたり立てこもり、援軍を求めて伝令に走った使者が、再びアラモに戻り仲間たちと運命を共にした話でございます。
しかし、アラモの砦は陥落し、長篠城は持ちこたえましたので結末は逆になっております。なお、志賀重昴は岡崎市の東公園に南北亭という世界中の木材を使ったあずまやを作ったり、「日本ライン」や「恵那峡」といった命名をしたりしています。
皆さまが是非一度岡崎に足を運んでお城や東公園をご覧いただくことをお勧めします。
なお岡崎城公園には「三河武士のやかた家康館」がありますことを申し添えます。
また強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為は、この前の太平洋戦争中には『戦陣訓』と関連付けて評価されたものでございます。あれっ、戦陣訓をご存じないですか・
戦陣訓はもともと戦国時代の武将家における武士道の家訓のようなものでした。
それが、この前の戦争、いや日清戦争の時に清国軍の捕虜に対する残虐性に対し陸軍大臣山県有朋が問題とし「捕虜になったら死ぬべきだ」がもとになり、太平洋戦争勃発時に東條英樹が1941年1月に出した訓令で軍人のあるべき姿のうちの一つとして「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名になりました。これは明治天皇が下された軍人勅諭とは別物でございます。
職業軍人以外の兵は捕虜になりますと味方の秘密を話してしまいますので、強右衛門のように死しても秘密を漏らすなと規定したのでございます。
なお、強右衛門は関ヶ原の戦いの序盤で伏見城で戦死した鳥居元忠とは鳥居一族でありますが、直接の血縁関係がございませんことを申し添えます。
話がアチコチに飛びましてどうもすみません。
亀姫と信昌の結婚式はこの長篠の戦いの翌年の1576年に執り行いました。
信昌はそれまでは奥平家の長男として貞昌と名乗っておりましたが、信長様からお名前を頂戴して信昌となったのでございます。またこの偏諱(へんき)には裏話もございます。
と、いいますのは信昌の信の字は信長様の信でなく、信昌が武田家に仕えて居た時に武田信玄公となられる前の名前である晴信の信を頂いていたというのでございます。
奥平家では私の長女をもらったので後に将軍家となった徳川に気を使って信玄公よりも徳川と同盟軍であった信長様からお名前を頂いたことにしておこうと伝えて来たのでございましょうね。
なお、信長様が直臣以外にお名前を与えられたのはこの信昌と我が長男の信康、それに土佐の大名長宗我部元親の長男の信親くらいしかおりませんことをも申し添えます。
信昌と亀姫の二人は仲睦まじく四男一女をもうけてくれました。
1577年に長男で私の初の男の孫の家昌が生みますと、立て続けに家治、忠昌、忠明そして娘を一人もうけたのでございます。
あっ、すみません、話が長くなりましたので、ここでちょっと休憩を入れさせていただきます。
それにしても私の話は余分なことを申し上げて横道に入って行ってしまいますね。
それでは休憩後には亀姫と信昌の息子たちのお話と通じて、私の時代から秀忠にどのようにしてポリティカル・バランスが移って行ったかにつきゆっくりとお話しさせていただきます。休憩。

つづく

丹羽慎吾

 

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