シンゴ歴史めぐり18 家康のつぶやき 長女亀姫の巻 後編(2019年5月記)

えーと、ごゆっくり休憩いただけたかと存じます。
亀姫の話を続けさせていただく前に私の兄弟についてお話ししますと、私は一人っ子でございました。母は私が三歳のころに実家の水野家が父と敵対する織田方に付いたために、離縁されて実家に戻されてしまいました。
そして母は久松家に嫁がされ、そこで再婚相手と子を産んでおりますので、私は一人っ子ではございましたが、父は違えど母を同じくする兄弟がおり、後に松平姓を与えました。
この久松松平家の義弟の三男坊が伊予松山藩の祖となり明治まで続いたのでございます。
一方、父は私が人質として今川に居りました6歳の時に部下に殺されているのでございます。
なお、その父も10歳のころに自分の父親を部下に殺されているという経験を持っておりました。
私は幼くして人質に出され、今川家で大人の顔色を伺いながらも、近習のものたちと一緒に遊び、学ぶという生活を送っておりました。
そのように父母兄弟といった家族とのつながりを持たず育ったのでございますので、妻をもらい子ができましても、妻や子にどのように接して良いのかあまりよくわかりませんでした。
しかしながら、私の長女の亀姫は奥平信昌と仲睦まじく暮らし始めたのでございます。
きっと、亀姫は私と築山殿との夫婦関係の悪さを見ておりましたので、それを反面教師として学んでいたのでございましょうね。
1577年に亀姫と信昌の間に長男の家昌が生れますと立て続けに家治、忠昌、忠明そして娘を一人もうけたのでございます。あっ、これは休憩前にお話し致しましたね。
私の子の秀忠は1579年に生れておりますので、秀忠と孫の家昌は年上の甥、年下の叔父の関係になるのでございます。日本ではつい最近までこのような例はたくさんありましたよ。
そうそう、この前「家康、明治維新を語る」という座談会で同席しました岩倉具視さんに座談会の後の食事会で同じようなお話しお聞きしました。
岩倉さんは徳川最期の将軍慶喜を追い出した公家の方でありましたが、彼のひ孫の岩倉具子の、というより小桜葉子さんの夫であった上原謙さんの話をしてくれました。
上原謙さんは小桜葉子さんが亡くなったあとに38才年下の若い女性と再婚し71才の時にお子さんを設けたとのことでございます。
すると小桜さんと上原さんのお孫さんより若いお子さんが生れたのでございます。
小桜さんと上原さんのお子さんは加山雄三さんで、お孫さん言うのは池端えみさんで、あとから出来た娘さんというのは元女優の仁美凌(ひとみりょう)でございます。
すみません、話が相変わらず飛んでしまいました。
亀姫と信昌の間にできました家昌は外孫でございましたが、私にとり初の男の孫でございました。
可愛いものでございますね。男の子の孫は。はい。
家昌の家の字は彼が元服した時に私が与えた偏諱なのでございますよ。
しかし幼いころから病弱で、私よりも早く亡くなってしまいました。
それであの宇都宮吊り天井事件が・・・・・・。あっ、ちょっと話が飛び過ぎました。
話を亀姫夫婦に戻します。亀姫の夫の信昌は亀姫にぞっこんで、当時の慣習であった側室を持つこともしておりません。
そのぉー、私も信昌の気持ちがなんとなく、いや痛いほど理解できるのでございます。
なぜなら私の最初の妻は名門の今川家出身の築山殿でございましたから。
私も結婚当初には、それはそれは築山殿べったりでございました。はい。
亀姫は生前の築山殿に夫婦仲良く暮らしている旨の手紙を送ってきたようでございます。
そんな中で1582年に信長様が本能寺で討ち死にされ、織田家の領地であった甲斐、信濃、上野(こうずけ)が空白地帯になりました。
それで私はそれらを北条氏と奪い合う戦いを行ったのでございます。
その戦いでも娘婿の信昌は徳川軍として活躍をしてくれました。
1585年には私の宿老であった石川数正が小牧長久手の戦いの後に秀吉様の元に出奔してしまいました。え~と、石川数正については先ほど長男の信康の時に少しお話しいたしましたのでご説明は不要ですね。
数正は徳川の軍事機密を熟知しておりましたから、それが秀吉様に漏れてしまうと私は思いました。それで、それまでの戦のやり方を三河式から私が尊敬しておりました武田式のものに変えました。
その時に信昌はかつて武田家に仕えていた関係から軍制の改革に大きく貢献してくれました。
1590年に私が関東に移った際に、私は信昌に上野国甘楽(かんら)郡宮崎3万石を与えました。
1600年の関ヶ原の戦いでも大活躍をしてくれましたので、戦後に京都の治安を守るという大切な仕事を行う京都所司代を少しの間任せました。
その時に信昌は西軍の毛利氏の武将兼外交僧であった安国寺恵瓊(えけい)が京都に潜伏しているのを見つけ捉えるという大仕事を成し遂げてくれました。
これは義父として他の大名に対して大いに自慢できるものでございました。
しかし、太秦に隠れていました宇喜多秀家には逃げられておりましたことを申し添えます。
1601年に私はそれまでの信昌の一連の業績を高く評価して上野小幡3万石から美濃国加納10万石へと三倍の加増転封をしてあげました。
と言いますのは、関ヶ原の戦いで福島正則と池田輝政が先陣争いをしました織田家の岐阜城はその年に破却としましたので、近くの加納の町に新しい城を築くように信昌に命じたのでございます。
あの~、池田輝政は私の次女の督姫の再婚相手でございます。
次の回で次女についてお話ししますので、ここでちょっと名前を出しておきます。すみません。
その~、加納は当時の中山道の重要な宿場町でございました。
それ故に、亀姫は「加納御前」とか「加納の方」と呼ばれるのでございます。加納の町は今のJRや名鉄の岐阜駅のすぐ南側で、それぞれの駅から加納城跡まで1,5km、
歩いて20分ほどの所でございます。
是非とも一度、岐阜市まで足を延ばして、山城の金華山の稲葉城、そして平城であった加納城跡にたたずんでいただき、当時を偲んでいただければとありがたいと存じます。
信昌に加納を与えた1601年には、少し遅れて信昌の長男で、私の初の男の孫である家昌に下野宇都宮10万石を与えたのでございます。
家昌の宇都宮行きは、私が政治顧問の天海僧正に北関東の要衝の地を誰に任すかを尋ねた時に、「何も考える必要はございません、家昌さまでございます。」と即座に答えたからでございます。
しかし、奥平家はその後に不運が続きました。
亀姫の夫の信昌が1602年に隠居して三男の忠政に加納藩藩主の座を譲りました。
しかし、三男の忠政はもともと病弱でしたのでその後も父の信昌が実権を握り藩政に当たっておりました。この三男の忠政が1614年7月に父に先立ち35才で亡くなってしまったのでございます。
同じ年の10月には男の初孫で宇都宮藩主であった家昌も病にかかり38才で亡くなったのでございます。すると、今度は何と父の信昌が翌1615年4月に60才で亡くなってしまったのでございます。なお、信昌の次男の家治は14歳で早世しておりました。
亀姫にとっては夫、そして子供が次々に亡くなるという最悪の時でございました。
それで、私の人生の最後の仕上げでございました大阪の陣には信昌の四男の忠明が自領の伊勢亀山の兵と、父信昌の領国であった美濃加納の兵を率いて参戦してくれたのでございます。
その戦いで忠明は大活躍をしてくれましたので、戦後に私は忠明には摂津大阪藩10万石を与えたのでございます。
戦いで荒れた大阪を立ち直らせるべく私の孫の忠明に町の復興に務めさせたのでございます。
あの~、私は大阪というか関西では人気がないことを重々承知しております。
しかし、皆さまご存じのあの大阪の道頓堀は、私の孫の忠明が命名したものでございます。はい。
この四男の忠明は長生きをしまして1644年に61才で亡くなっております。
さて、話は少し戻りまして宇都宮藩は信昌の長男の家昌が1614年に亡くなりましたので、子の忠昌が7歳で引き継ました。忠昌の忠の字は誰から偏諱を受けたか皆さまもうお分かりか存じます。
1619年に忠昌の叔父、つまり母の亀姫の弟で第二代将軍秀忠が私を祀る日光東照宮への参拝の途中に宇都宮に立ち寄りましたときに、忠昌は1万石の加増を頂くとともに下総古河11万石への転封を言い渡されました。
この処分に咬みついたのが忠昌の祖母、つまり私の長女の亀姫でございました。
これが有名な宇都宮吊り天井事件の始まりでございます。
その前に亀姫と信昌の子供、孫などについて簡単に表にしてみましたのでご覧願います。亀姫は夫と子供たちが相次いで亡くなったあと孫たちの後見役となっておりました。
当時の日本は女性が活躍できる良き時代であったのでございます。
なぜ亀姫が孫の忠昌の加増転封に咬みついたかと申しますと、孫の忠昌に代わって宇都宮に入ってきましたのが私の参謀であった本多正信の子の本多正純だったからなのでございます。
父の本多正信は私が1616年4月に亡くなった直後の6月に私の後を追うように往生しております。亀姫が本多正純の宇都宮入りに異を唱えましたのには、いろいろな事情が絡まってくるのでございます。
ひとつ、加増になったとはいえ、大都会の宇都宮から片田舎の古河への移封であったこと
ふたつ、忠昌の移封の理由が年が若いということであれば相続した7歳の時に行うべきで、12歳まで待っての国替えは納得がいかないこと。
みっつ、今まで奥平家が受けていた宇都宮の石高が10万石であったのに、本多正純は加増され15万石になったこと。
これに対して正純は加増の理由は私の遺言であると説き伏せたようでございます。
よっつ、亀姫のひとり娘の嫁ぎ先が大久保忠隣(ただちか)の嫡子大久保忠常でございました。
大久保忠隣も私の優秀な側近で、その時は小田原城主でございました。
しかし、忠隣の息子の忠常が1611年に31才で亡くなりますと、父の忠隣は意気消沈して業務がおろそかになってきていたのでございます。
また、忠隣は若いころから本多正信・正純親子とライバル関係にありました。
1613年には、本多親子によりある事件をきっかけに失脚させられ、持ち城の小田原城は本丸を除いて破却、忠隣は近江の井伊直孝にお預けとなりました。
ある事件ですか、それは岡本大八事件と大久保長安事件でございます。
これらについて説明しておりますと、本日は皆さまがご帰宅できなくなってしまいますので、また別に機会にご説明させていただきます。はい。
それやこれやで亀姫は本多正純を許すことが出来なかったのでございます。
1622年に第二代将軍の秀忠が私の七回忌のために日光東照宮参拝に行きその帰りは宇都宮城に一泊することになっていたのですが、亀姫は日光に居た秀忠にお城の湯殿に吊り天井が仕掛けられており、本多正純が秀忠の暗殺を計画していると伝えたというのです。
それで秀忠は東照宮参拝の帰途は妻のお江が病気であるからとの言い訳をして宇都宮を素通りして別の城に泊まって江戸に戻ったのでございます。
するとその年に本多正純が出羽山形城に業務で出張した際に秀忠からの使者が山形城に来て本多正純には12の罪があるとして糾弾されてしまったのでございます。
その罪状には宇都宮吊り天井の他に鉄砲の秘密製造、城の無断修理などがありました。
それらに対して本多正純は謀反に覚えがないとはっきりと答えたのであります。
それで秀忠は本来なら正純を改易とするところを先代からの勤めを勘案して出羽国由利5万5000石への大幅な減封転封とすると命じたのでございます。
すると、本多正純がこれを固辞しましたので秀忠は激怒しまして本多家は改易され知行1000石となり、正純は出羽国由利に流罪、身柄は佐竹家にお預けとなり、最後は出羽国横手に幽閉となり、1637年にそこで亡くなりました。享年73歳でした。
おごる者久しからずやでございますね。
この正純失脚は私の時代から秀忠の時代への権力構造の変化を表す例でございます。
と、言いますのは将軍の側近政治は私が重用した本多親子から、秀忠を取り巻く土井利勝、酒井忠世などに変わっていたのでございます。
本多正純はすでに自分が窓際族であったことを自覚していなかったのでしょうね。
いつの世も第一世代を助けた番頭さんたちは第二世代に入ると煙たがれ、考え方が古いとして新しい世代から遠ざかれて行くという良い例ではないでしょうか。
あれっ、そこで深くうなずいておられる方がおられますね。
大塚家具の関係者の方ですか?それともリクシル?

なお、大久保忠隣の叔父であった大久保彦左衛門(1560年~1639年)は本多忠純の処分を聞いて、これで忠隣の恨みが張らせたと喜んだと言われます。

あっ、すみませんでした。話を私の長女の亀姫に戻します。

本多正純が失脚すると亀姫の孫の忠昌は1622年に宇都宮藩に再び戻ることができました。

亀姫は1625年に美濃加納にて66歳で人生の幕を閉じました。

その時には4人いた彼女の腹違いの妹たちはすでになく、男の兄弟も秀忠、忠暉、そして御三家の義直、頼宜、頼房の5人しか残っていませんでした。

あっ、係の人から私の持ち時間が大幅にオーバーしているとご指摘がありました。

それでは、今日はこれまでとさせて頂きます。

次回は次女の督姫についてお話しさせてい頂きたいと存じます。

督姫も北条家の最期の城主氏直に嫁ぎ、秀吉様によって北条家が滅びますと私の元へ戻り、これまた秀吉様が徳川と豊臣の家臣の関係強化を図るために池田輝政の元に嫁がされました。

なお、池田家は信長、秀吉そして徳川の江戸時代を生き抜き現代まで続いている名家でございます。しかしながら、督姫はあの毒饅頭事件を起こしたとされるのであります。

あっ、予告はここまでとし、今日はこれで失礼させていただきます。

はい、ありがとうございました。お疲れ様でございました。お忘れ物のないようにお帰りください。

えっ、係の方、何ですか、亀姫信昌夫婦が孫たちを連れて控室に来て待っているってですか。

孫よ~♪孫、孫。おじいちゃんですよ。数々の戦では負けたこともない私も孫には勝てませんね。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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