シリーズ多摩川 (2) 多摩川の歴史

多摩川の歴史と先人の知恵

多摩川は、首都圏を流れる一級河川で、昔から「あばれ川」として知られています。その歴史には特有の出来事と先人の知恵が活かされています。

江戸時代の治水事業
江戸時代、多摩川は勾配が急な河川として知られ、水害が頻発していました。田中丘隅(きゅうぐ)は幕府の命で多摩川の治水に尽力し、瀬替えや堤防の築造などを行いました。彼の技術は「多摩川流の河川土木技術」として全国に広がりました。

アミガサ事件と改修工事
アミガサ事件は、住民たちが多摩川の水害に抗議し、築堤の改修を求めて神奈川県庁に押し寄せた出来事です。この運動が多摩川の改修工事を実現させました。この事件をきっかけに、多摩川で最初の本格的な改修工事が始まりました。

狛江水害とその影響
昭和49年の狛江水害は、多摩川が人家を飲み込む様子が報道され、多摩川の荒々しさと水害の深刻さを示しました。この水害は戦後最大規模の洪水とされ、その後の多摩川水系の整備に大きな影響を与えました。

昭和49年9月1日、狛江市猪方地先の多摩川堤防が決壊し、その悲劇的な瞬間が全国に報道されました。この事件について詳しく見てみましょう。

驚くべき決壊の瞬間
大型台風16号が接近し、関東地方に激しい雨をもたらったことが要因で、多摩川上流は豪雨に見舞われました。翌日未明、多摩川の堤防が決壊し、その瞬間が全国のテレビ画面に映し出されました。住民たちの多くが一生懸命に建てた家やマイホームが濁流にのまれていく光景に、多くの人々が胸を痛めました。

予測不可能な災害
多摩川はこれまでおとなしい川として親しまれてきましたが、台風の影響で予測不能な洪水が発生しました。事前の防災訓練が中止されるなど、誰もがこのような事態を想像できなかったため、市民たちは突然の洪水に対処しなければならない状況に置かれました。

懸命の水防活動
市職員や消防署、自衛隊、警察など多くの関係機関が駆けつけ、懸命に水防活動に取り組みました。堤防を支えるための工夫や大量のテトラポットの投入などが行われましたが、洪水の勢いには抵抗できませんでした。

堤防爆破の試み
洗掘が続く中、堤防を破壊して水流の方向を変える試みが行われました。爆薬を用いて堤防を爆破する試みも行われましたが、初めの爆破はほとんど効果がありませんでした。再度の爆破が行われ、ようやく堤防に破壊口が開かれ、洪水の流れが変わる効果が得られました。

長い復旧と補償の道
洪水が収まるまでの数日間、市職員や関係者は徹夜で活動しました。堤防の復旧や流失家屋の補償交渉が待っており、市民たちの苦難は続きました。この事件は人災か天災かを巡る裁判も行われ、住民側が勝訴しましたが、多摩川堤防決壊の傷跡は深く刻まれた出来事として残りました。

まとめ
昭和49年の多摩川堤防決壊事件は、台風の影響で予測不能な洪水が発生し、多くの住民が被害を受けました。市職員や関係機関の懸命な水防活動が行われましたが、堤防爆破などの試みも効果を上げるまでには至りませんでした。この事件は裁判を通じても争われ、復旧と補償の道が長く続いた出来事であり、その傷跡は今もなお残っています。

多摩川は「あばれ川」としての歴史を持ち、昔から水害と闘いながらも、多摩川改修の先駆者や住民の意志によって進化してきました。その歴史は、多摩川が私たちの生活と共に歩んできた証しであり、未来への大切な教訓です。

参考:国土交通省および狛江市

 

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