シンゴ歴史めぐり20 家康のつぶやき 次女督姫の巻 中編 (2019年5月記)

え~、それでは私の次女の督姫について池田輝政に嫁ぐところからお話を続けます。
督姫が輝政に嫁ぐ前に実は秀吉様から私に輝政の再婚について私に打診があったのでございます。それは信長様の姪のお江を輝政に嫁がせたいがどうだろうかとの相談でございました。
その時、お江は夫で、秀吉様の甥御である豊臣秀勝を朝鮮出兵で亡くしていたからでございます。
私はバツ2であったお江を彼女よりも6才年下である私の息子の秀忠の嫁にもらい、息子の軟弱な性格を鍛えてもらおうと考えておりました。
それで、輝政の後添えには夫を亡くした督姫を嫁がせたいと秀吉様にお願い致しました。
すると秀吉様は督姫と輝政が一緒になれば豊臣家臣と徳川家との血縁ができ、またお江と秀忠の結婚は織田家と徳川家のつながりができ、三方がウィンウィンウィンの関係になるので、二組の結婚に賛成じゃとの同意を頂いたのでございます。
それで督姫と輝政が1594年に結婚し、翌年に秀忠とお江が式を挙げております。
督姫30歳、輝政も同じ年齢でございました。
あの~、池田輝政の父の池田恒興は休憩前にお話ししましたように信長様と乳兄弟という関係のみで織田家で出世してきた武将です。
1582年に信長様が本能寺で亡くなられ、その後継者を決める清洲会議で池田恒興は織田家の重臣のひとりとして参加しました。
しかし、秀吉様に丸め込まれ、大先輩の柴田勝家様に対抗する側に回ったのでございます。
なお、清洲会議には4人の織田家重臣が参加しており、残る一人は前田玄以でございます。
私は信長様とは同盟者でしたが、信長様の家臣ではございませんでしたので清洲会議には招待されておりませんことを申し添えます。
そして、1584年には私は信長様の次男の信雄の依頼によって秀吉様と戦うことになりました。
皆さまご存じの小牧長久手の戦いでございます。
織田家の重臣であった池田恒興が信雄・家康軍に付くか、秀吉軍に付くかと注目されたのですが、恒興は結局、秀吉軍に付いたのでございます。
機を見るに鈍な武将でございますね。
また、恒興はその戦いで功を上げたいと思ったのでございましょうね、調子に乗り、私が不在になった岡崎城を攻めようとして、私の部下の永井直勝に討たれて戦死してしまいました。
なお、その時に恒興の嫡男の元助も亡くなりましたので次男の輝政が池田家の家督を継いだのでございます。
そんな事情もあり、輝政は督姫を妻にした時に伏見の私の屋敷に挨拶に参りまして、小牧長久手の戦いで自分の父の恒興を討った永井直勝に会いたいと言い出しました。
それで、二人を合わせますと、池田輝政は永井直勝から父恒興の最期の話に涙を流しながら聞いた後で、直勝の所領はいくらかと私に尋ねてまいりました。
直勝の所領が5千石だと知ると輝政は急に不機嫌になり「自分の父の首はたった5千石か」と嘆き、私に直勝の加増をしてくるように頼んできたのでございます。
私は娘婿の依頼でもあり、仕方なく直勝に1万石を加増しました。
なお、永井直勝はその後もいろいろと徳川家のために活躍してくれましたので、秀忠の時代の1622年に下総古河7万2千石になっていることを申し添えます。
下総古河については長女の亀姫のお話しの時に出てまいりましたね。
そうなのです、私の長女の亀姫の孫の忠昌が1614年に7歳で宇都宮藩主となり、幼少ゆえに要衝を任せられないとして1619年に12歳で転封されたところでございます。
あの~、今のシャレがお分かりでしょうか。
そして忠昌のあとに宇都宮に入った本多正純が吊り天井事件で改易されますと、忠昌は宇都宮に戻りました。
その忠昌が宇都宮に再封されたあとに古河に入ってきましたのが永井直勝なのでございます。
直勝は常陸笠間藩3万2千石から4万石から宇都宮7万2千石への加増転封でございます。
これは我が子秀忠の思いやり人事なのでございましょうね。
我が子の自慢話となりすみません。池田輝政に話を戻します。
池田家は前にご説明しましたように信長様、そして秀吉様に目を掛けられました。
また池田輝政は豊臣の姓ももらい、妹は関白秀次様の正室にもなっております。
しかし、督姫が輝政に嫁いだ翌年に秀次様が秀吉様の怒りを勝って失脚し切腹した事件が起こりました。
その時は秀次様の側室そしてお子様の多くが処刑されておりますが、正室であった輝政の妹は例外的に命を救われております。
逆に伊達政宗の従妹の駒姫、つまり政宗の母の兄の最上義光の娘は可哀そうでございました。
秀吉に召されて15歳で山形から京に到着したばかりで、秀次に会う間もなく秀次が切腹させられ、駒姫もその二週間後に他の側室とともに三条河原で処刑されてしまったのです。
それで1600年の関ヶ原の戦いで最上義光は娘を殺した豊臣家憎しで私の方に加勢したとも言われます。
すみません、話がまた池田家から飛んでしまいました。
当時の輝政の居城は我がふるさと三河の吉田城、つまり愛知県豊橋市でございました。
輝政は1590年から10年ほどその吉田城の城主を務め、城作り、町作りに努めてくれたのです。
ご存じのように輝政は次の任地の姫路ではその城つくりの腕を発揮して大規模に作り替えたのが世界遺産となりました姫路城なのでございます。はい。
ですので、前任地の吉田で整備した吉田城はその姫路城の元となるようなお城でございます。
現在ではお城マニアの方には見逃せない魅力をもったお城となっておりますことを申し添えます。
くどいようですが、豊橋駅から歩いて22分の程の所にございますので、是非とも一度お出かけ頂きたいと思います。豊橋名産もちくわの他にいろいろございますので、お試しください。
私は三河の観光大使も務めているのでございます。はい。
当然のことながら私は静岡の観光大使も兼務しております。

輝政は秀吉様が行った朝鮮征伐の文禄慶長の役では国内業務でございましたが、福島正則や加藤清正らと同じ武断派に属し、石田三成の対抗勢力となりました。
そして、秀吉様がお亡くなりになった1598年には三成襲撃事件を起こした7人の武将の中のひとりでございました。
あの時は私も娘婿たちが起こした事件でしたので慎重に事に当たりました。
そして私の計算通りに三成は動き、関ヶ原の戦いへとなって行ったのでございました。
池田輝政は当然のことながら東軍に属して活躍し、初戦の岐阜城攻略では福島正則とともに先陣を争いました。
本当は輝政が一番乗りの手柄をあげたのですが、輝政は福島正則にあっさりと功を譲り二人同時に城を落としたこととしております。
この態度を見ましても輝政が欲のない三代目の武将であることがよく分ると思います。
また輝政はその前に岐阜城の城主になっておりましたので、その経験が岐阜城攻略の助けになっておりましたことを申し添えます。
関ヶ原での本戦では輝政を前線には出させず、毛利勢が静観する南宮山の押さえを任せておりました。これを私の娘婿への身びいきだといわれましても仕方がございません。はい。
そして、戦後の論功行賞で私は輝政を高く評価して播磨姫路52万石に大抜擢しました。
いかに大抜擢であったかは次の恩賞ベスト5をご覧いただければ一目瞭然でございます。
これまた、身びいきといわれましても仕方がございません。はい。
これらの大名の名前の下のカッコの中をご覧になり、やっぱりと思われることと思います。はい。
なお、6位から10位までの名前を申し上げますと、黒田長政、最上義光、加藤清正、福島正則、田中吉政でございます。
また、黒田家以外の武将たちが秀忠の時代にどのように処遇されたかは皆さまよくご存じであると存じます。

第三位の蒲生秀家は次回お話しする三女振姫の最初の婿でございます。
督姫と輝政の間には5男2女が生れておりますが、輝政には側室もいましたので輝政の子供は全員で11男3女となっております。
輝政と先妻および督姫の子供たちの関係を示すと次のとおりです。
輝政が受領しました播磨52万石には督姫の化粧料10万石が含まれております。
輝政は1613年に、督姫は1615年に亡くなりました。
えっ、督姫が1565年生まれであれば末っ子の輝興を産んだ1611年は46歳ではないかと言われのですか?そうなんです、ですので督姫は1575年誕生説が正しいと言われております。
しかし1575年生れとしますと北条氏直に嫁いだのが1583年の8才となり、1590年の小田原征伐では15歳で、それまでに二人の姫を産んだことになるのでございます。はい。

つづく

丹羽慎吾

 

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