シンゴ歴史めぐり19 家康のつぶやき 次女督姫の巻 前編 (2019年5月記)

みなさん、おはようございます。先日は私の長女の亀姫の話をさせていただきました。
え~、本日は次女の督姫についてお話をさせて頂きますが、まず最初に前回同様に私の子供たちの一覧表を見ていただきます。
徳川家というのは私が初代当主でございますが、松平家として私は9代目なのでございます。
その松平家というか、家の重みを私は子供のころから意識しておりました。
私は一人っ子でございましたので、大人になったら跡取りとなる男の子をたくさん作ろうと決めておりました。今思えば私は変な子供でございましたね。
それで、今川家出身の築山殿と結婚し、1559年に信康、翌年に亀姫が生れ、そしてその次に生れましたのが次女の督姫でございました。
あっ、すみません、督姫の生年につきましては1565年説と1574年説の二通りの説があるのでございます。
正式な記録が徳川家に残っておらず、私の記憶にも残ってないのでございます。
失われた9年なのでございます。
日本もいろいろ、私の姫もいろいろあるのでございます。
長女の亀姫は前回お話ししましたように信長様の命令で奥平信昌に嫁がせました。
そして、亀姫と信昌の二人の仲は睦まじく、信昌は側室も持たず、いや、持てず、私の孫たちをなしてくれました。
次女の督姫の場合は信長様がお亡くなりになった後の秀吉様の時代の風にまともに受けているのでございます。
え~、督姫のお話をさせていただく前に、督姫の母の西郡局(にしごおりのつぼね)についてお話しさせていただきます。
西郡局は今川家の重臣である鵜殿長持(うどのながもち)の孫娘なのでございます。
重臣と申し上げましたのは、鵜殿長持は今川義元様の妹を妻に迎えておりますので、その鵜殿長持の地位が今川家でどのくらいであったかがご理解いただけると存じます。
なお、当時の駿河の今川家は甲斐の武田、相模の北条家と同盟を結んでおりまして、それぞれの娘を相手の嫡男に嫁がすという血縁に基づく関係も作っておりました。
え~と、まず甲斐の武田信玄様が姉の定恵院を駿河の今川義元様に嫁がせました。
義元様は定恵院との間にできた娘の嶺松院を今度は信玄様の息子の義信様に嫁がせています。
そして、信玄様は娘の黄梅院を相模の北条氏康の子の氏政に嫁がせ、北条氏康は娘の早川殿を義元様の息子の氏真に嫁がせております。
ややこしいので下のように表にしてみましたのでご覧ください。
なお、鵜殿家も先ほどお話ししましたように今川義元様の娘をもらったのですが、歴史上マイナーな家系ですので左の表には載っておりません。
しかし、私は鵜殿家の家系図も取り寄せておりますので右側の家系図をご覧ねがいます。
この右側の家系図には私の名前や、これからお話を致します督姫と夫の北条氏直そして池田輝政の名前が出てまいります。
ということで、お分かりになると思いますが、督姫は北条氏直に嫁ぎ、氏直が秀吉様の小田原征伐のあとに亡くなりますと池田輝政と再婚しているのでございます。
ちょっと話がはやすぎましたかな。

督姫の母西郡局の出身である鵜殿家は今川氏の拠点のある静岡県でなく、今の愛知県東部の蒲郡をその領地として今川家に仕えていました。
蒲郡は岡崎と同じく東三河でございます。
その蒲郡は今川氏が駿河からに西に向かって上洛するために重要な地域でございました。はい。
鵜殿家は長持の子の時代には本家の長照と分家の長忠に分かれておりました。
本家の長照は桶狭間の戦いの時に主家である今川氏の尾張における最前線の大高城を任されておりました。
私はこの大高城に居た時の鵜殿長照と関係があるのでございます。
それは長女の亀姫の時にお話をしましたが、ここでまた少し触れさせて頂きます。
桶狭間の戦いの時に尾張に食い込んでおりました大高城は織田軍に回りを囲まれて動けず兵糧が尽きかけておりました。
その時はまだ今川氏に組みしていた私が指揮して兵量を大高城に首尾よく運び込んだのでございます。
それで大高城を守っていた鵜殿長照から私は高く評価されたのでございます。
しかし、その鵜殿長照は桶狭間で義元様が討ち死にされたと聞くや、私を大高城に残してすぐに蒲郡の居城に逃げ帰ってしまったのでございます。
機を見るに敏な人でございました。はい。
しかし、私もそんな鵜殿長照のことを非難することはできないのでございます。
といいますのは、私も義元様が討ち死されたことを確認しますと、実家の岡崎に逃げて、松平の菩提寺の大樹寺に隠れ、そこの和尚の教えに諭されて今川軍が撤退した岡崎城に入り独立することにしたのだからでございます。
そして、その後に勢いの衰えた今川勢の城々を自分の勢力下においたのでございます。
その中の一つに鵜殿長持と子の長照の城がございました。
お城の名前ですか、神の上城とも西之郡之城とも言われました。
長持、長照親子はその戦いで勇敢に戦い死を選んだのでございます。
しかし、長照の幼子二人は生きておりましたので、殺すことはせず私は二人を人質としたのでございます。
といいますのは、当時、私の正室の築山殿と長男の信康、長女の亀姫が駿河に捕らわれたような状態になっておりましたので、長照の遺児ふたりを人質として私の家族と交換することにしたのでございます。
この遺児二人はのちに私の家臣といくつかの戦いに参加してくれましたので旗本にしております。
え~と、鵜殿家の分家の長忠はこれまた機を見るに敏と言いますか、桶狭間の戦いの後には今川家の支配から脱して私の方に組みしておりました。
真田兄弟のように敵味方に分かれたわけでございますね。戦国の世でございますな。はい。
そして、西郡局はその分家の鵜殿長忠の娘なのでございます。
すみません、督姫の母の西郡局についてそのバックグランンドの説明が少し長くなりました。
ともあれ、あのころは関東の有名な武将が次々に亡くなって行った時代でありました。
1560年 今川義元様が桶狭間で討ち死に
1573年 武田信玄様が上洛中に病死
1578年 上杉謙信様が逝去
そして1582年には信長様が本能寺で討ち死にされました。
私は信長様が亡くなり、秀吉様が織田家の政権取りに忙しくされる間に織田の領土であった甲斐国や信濃国を小田原の北条氏政殿と奪い合いの戦を行いました。
この時ですね、皆さまご存じの真田丸の堺正人、いや、真田幸村のお父さんの真田昌幸が北条軍から我が軍に寝返ってくれたのです。
真田昌幸の得意とするゲリラ戦法の前に北条軍が戦意を喪失して、北条軍と徳川軍の和睦に持ち込んでくれたのです。
その和睦とは信濃と甲斐は徳川領にし、上野を北条領とすることと、私の次女の督姫を北条氏政の嫡男の氏直の室として嫁がせることでございました。
ということで、督姫が嫁ぎました年は信長様がお亡くなりになった翌年の1583年でございました。
督姫と氏直の二人の間にはふたりの姫が生れました。
しかし、そんな生活も長くつづきませんでした。
1590年の秀吉様の小田原征伐でございます。
早雲から五代続きました北条家の終末でございました。
小田原征伐の後のことは皆さまご存じのように北条家で実権を持っていた北条氏政は切腹となり、私の娘婿である氏政の子の直政の処分につきましては、私が秀吉様に嘆願して命だけは助けて頂き高野山へ流されることとなりました。
その翌年2月に氏直は赦免されて督姫と再会しましたが、その年の11月に疱瘡にかかり亡くなってしまいました。30才の若さでございました。
えっ、そこの奥様、氏直と督姫の二人の娘はどうなったかですかとの聞かれるのですか?
子を持たれる母親としては当然の質問でございますねえ。
ひとりは生れてすぐに亡くなりましたが、もう一人は万姫といい、池田輝政の長男の池田利隆の許嫁となりましたが、1602年に17才で病死しております。

え~、督姫と北条氏直は実は7親等の叔父姪の関係になるのでございます。
と、いいますのは、先ほども申し上げました通り1550年代は武田、今川、北条はご存じの甲駿相三国同盟を結び政治的なつながりとともに血縁関係も結んでおりました。
そして、ややこしいのですのでちょっと説明を加えます。
北条家は早雲―氏綱―氏康―氏政―氏直と5代続きました。
氏直の父の氏政は武田信玄の長女の黄梅院を正妻に迎えていますが、実はその氏政の父の氏康は今川義元の妹をもらっているのです。
そして西郡局の祖父の鵜殿長持も前に申し上げましたように今川義元の別の妹を妻にしているのでございます。それらを表示しますと次のようになります。=が夫婦関係、→が子でございます。

北条氏直が亡くなりますと督姫は私の元に戻ってまいりましたが、1594年に秀吉様のご紹介で池田輝政に嫁ぐことになりました。
えっ、さっき池田輝政の長男の利隆に督姫の娘が許嫁になったと私から説明があったと言われるのですか?
鋭いご指摘でございますね。そうです輝政には長男がいたのでございます。
池田輝政の妻は長男の利隆を1584年に出産した後に病気となり実家に帰っておりました。
つまり、督姫と輝政は子持ち同士で再婚したのでございます。
えっ、その輝政の最初の妻で、利隆の母は誰だと知りたいのですって?
今日はかなり歴史マニアの方がいらっしゃいますね。
利隆の母は、え~と、糸姫といいまして、え~と、中川清秀の娘でございます。
私もこうゆう時のために電子手帳『戦国武将』を持って歩いているのでございます。
この手帳には戦国大名やその家族の生年月日、出身地、生い立ち、姻戚関係、主従関係、統治した地域、交友関係、趣味などなんでも載っているのでございます。
中川清秀は戦国時代に摂津の池田氏、荒木村重、信長様、秀吉様と点々と主人を変えて行った武将でございます。
あっ、係の方が話が長くなりそうなので、ここで休憩を入れてくださいとご指示がありました。
えっ、さっき摂津の池田氏と話があったが、輝元は美濃出身でないのかと言われるのですか?
そうなのです。輝元の出は美濃でございます。
といいますのは、あれっ、休憩時間がなくなりますが、いいですか?
それでは、ここで簡単に池田氏の説明をさせていただきます。
え~と、池田氏の発祥は和泉国、今の大阪府和泉市でございますが、徐々に領地を摂津、現在の池田市、豊中市、箕面市、吹田市などに広げるとともに美濃にも領地をもったのでございます。
池田輝政はその美濃の方の池田家の出身でございます。
そして、池田輝政の父は池田恒興といいましてその恒興の母は信長の乳母でございました。
それで恒興は信長様の乳兄弟という関係のみで織田家で出世してきた武将です。
すみません、皆さまの興味が盛り上がっておられますが、ここで休憩とさせて頂きます。はい。

 

つづく

丹羽慎吾

 

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