シンゴ歴史めぐり22 家康のつぶやき 次女督姫の巻 後編 (2019年6月記)

658 家康のつぶやき 次女督姫の巻 後編 (2019年6月記)

はい、私の次女の督姫のお話の続きでございます。
え~と、今までは督姫の嫁いだ池田輝政が姫路52万石になるまでをお話ししましたね。
しかし池田家といえば姫路のある兵庫県の隣の岡山県が有名でございます
岡山と言えば皆さまは何を思い起こされますか、えっ、桃太郎、マスカット、吉備団子、倉敷、えっつ、そこの方なんですか?

星野監督ですか、どえりゃあ人を覚えていらっしゃいますね。
えっ、岡山城、後楽園、そうでございますね。ありがとうございます。
他にも日本で最初の藩校といわれる岡山学校がございました。
また日本で最も古いと言われる庶民の学校である閑谷(しずたに)
学校も、まだ校舎が残っており、岡山は歴史に富んだところなので
ございます。
関ヶ原の戦い以前の岡山は宇喜多秀家が治めておりましたが、
関ヶ原で西軍に属したので改易とし、その後にあの小早川秀秋
を岡山城に入れました。その秀秋が1602年に跡取りが無く亡く
なりましたので、その後継を誰にするかと悩んでおりましたところ、
督姫が私のところに来て、輝政との間にできた最初の子、忠継を城主にしてほしいと強く要求してまいりました。私は、孫可愛さで1603年に忠継を岡山藩28万石に据えました。すみません。
忠継はまだ4才の子供でございましたので、姫路城に置き、岡山藩は輝政の先妻の子である長男の利隆が姫路から岡山に赴任して藩政を見ておりました。


しかし孫の忠継は16歳になり、岡山にお国入りするとすぐに亡くなってしまいました。
忠継は婚約をしておりましたが子がありませんでしたので、弟の忠雄を岡山藩の第二代藩主としました。忠雄13才でございました。
これから先のお話は私がこの世を去り、二代将軍の秀忠の時代のことでございます。
岡山藩を引き継ぎました忠雄も1632年に30才で亡くなり、その子の光仲が継いだのでございます。その光仲もまだ2才と幼少でしたので、山陽道の要衝の地は任せられないとして、これまた鳥取藩32万石に転封となったのでございます。すみません、前の回のダシャレをまた使ってしまいました。
その時に入れ替わりに鳥取から来ましたのが輝政の先妻の子の利隆の子の光政でございます。
と言いますのは、姫路藩は輝政の後を継いだ先妻の子の利隆がその二年後の1616年に亡くなり、その子の光政が7歳の幼少で大きな姫路藩を継いだのでございます。
しかし、これまた幼な過ぎるとして光政は姫路から鳥取32万5千石に減転封となっていたのでございます。光政が岡山に戻ってきました時の年齢はと言いますと、え~と1902年生まれですので1632年は30才でございました。
そして光政は先ほど申しました藩校岡山学校や庶民の学校閑谷学校を開いたのでございます。
光政は水戸藩主の徳川光圀、会津藩主保科正之とともに三名君といわれております。
その三人とも私の血を引いた孫なのでございます。孫を褒められると嬉しいものでございます。はい。なお、日本三名園のひとつの後楽園を作りましたのは光政の子の綱政でございます。


岡山藩はこの池田宗家の光政が初代藩主として明治まで、いや最近まで続いておりました。
その池田家の最期の当主は池田隆政(1926年~2012年)でございました。
彼は昭和天皇の第四皇女を嫁にしているのでございます。その女性といいますのは皇籍を離脱された池田厚子様、平成天皇のお姉様、今上天皇の伯母様でございます。

なお、姫路藩は先ほど申し上げましたように1616年に輝政の子の利隆が亡くなり、跡を継いだ孫の光政が幼すぎるとの理由で鳥取藩に移封されますと、徳川四天王のひとりの本多忠勝の子の忠政が15万石で入りました。この本多忠政の妻は熊姫でございます。
どこかでお聞きになったことのある名前でございますね。そうです、私の長男の信康と信長様の長女の徳姫との間に生れた次女、つまり私の孫娘でございます。
信康亡きあと、私が引き取って育てておりました可愛い孫娘なのでございます。はい。
その後の姫路藩は細かく分割されたり、藩主が幼少だからという理由などで奥平松平家、榊原家、再び本多氏、越前松平家と藩主の交代が相次ぎ、1741年に酒井家が入り廃藩置県まで続いたのでございます。すみません、お話しがまた池田家から脱線してしまいました。

もうひとつの池田家についての話題と言いますか、督姫に関するお話は毒饅頭事件でございます
先ほどの督姫の子供たちの生年没年の表をご覧になっておわかりのように、督姫と子の忠継は同じ1615年に亡くなっております。忠継は先ほども述べましたが16歳という若さでございました。
これを世間の人は次のように噂したのでございます。
督姫が実子の忠継を姫路城主にしたくて先妻の子である利隆を暗殺しようと企んだというのです。
それで、岡山城で利隆が忠継と面会した時に饅頭に毒を盛って利隆に食べさせようとしたところ、女中が手のひらに『どく』と書いて利隆に見せたので利隆はそれを食べなかったのですが、それを察知した弟の忠継が兄利隆の手にした饅頭を奪い取って食べて死亡したというのです。
つまり、忠継は腹違いであっても兄の身を守ったと言うのでございます。
そして督姫も自分のしたことを恥じてその毒饅頭を食べて死んだと伝えるのです。
実際の原因は二人とも当時の流行り病の疱瘡にかかって亡くなったようでございます。
その死因につきまして最近、いやもう最近ではないですが、1978年に忠継が埋葬されておりました知恩院の忠継廟の発掘調査が行われ、遺体が調べられましたが、その結果、毒死の確証は得られなかったのでございます。
しかし、それにしても、人の噂とは恐ろしいものでございますね。
長女の亀姫の宇都宮吊り天井事件といい、次女の督姫の毒饅頭事件といい世間では私の娘たちへのゴシップ作りが好きなのでございますね。
これも私の徳の無さのなせるものと反省しております。はい。
それでは、本日はサービスしてもう一つの話題をお話ししましょう。
督姫の母方の鵜殿氏は法華宗に帰依しており、一族の中から日翁という僧侶も出しておりました。
それで督姫もその母の西郡局も南無妙法蓮華経の法華宗の信者でございました。
しかし、私は南無阿弥陀仏の浄土宗でしたので、督姫は母の西郡局のために私と同じ浄土宗になる代わりに息子の一人の輝澄を法華宗に改宗させたいと申してきました。
私は若い時から宗教の大切さを身を以て知っておりましたので、督姫の要求を受け入れました。
また、督姫が北条氏直との間にできた娘のひとりである万姫を1602年に亡くし、その百箇日の法事の御供養米を京都の法華宗宗心門派の本山である本禅寺へ送った時のことでございました。
すると、いまの兵庫県宝塚市の村人が年貢米の供出に困っており、その本禅寺から御供養米を分けてもらって納め、ことなきを得たため、村人は万姫の法名にちなんだ妙玄寺を建てております。
なお、督姫の墓所は浄土宗に改宗しましたので忠継と同じく京都の知恩院にございます。
息子の忠雄が建てた督姫の知恩院の塔頭の名前は法名とおなじ良正院ございます。
督姫の母の西郡局は今述べました法華宗の本禅寺の三つある塔頭のひとつの心城院でございます。その法名は日淨でございます。
皆さまが京都においでの際は知恩院、本禅寺もコースの一つに加えて頂ければと存じます。

法華宗というか日蓮宗といえば私の10男の頼宜、11男の頼房を産んだお万の方を思い出すのでございます。
お万は日蓮宗の強烈な信者で、日遠(にちおん)という僧に帰依致しておりました。
その日遠は日ごろから宗論を挑んできておりましたのを私は不快に思っておりました。
それで1608年に江戸城で行われた問答の直前に日蓮宗側の論者を私は家臣に襲わせて、問答では浄土宗側を勝利させたのでございます。
そして日蓮宗が仏教宗派を批判した四箇格言(しかかくげん)であります真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊は経典にない空論であるとして、そのことを認めるように日蓮宗の本山寺院に対して誓紙の提出をもとめました。
すると、日遠は「四箇格言」を捨てる訳にはいかず、誓紙の提出を拒むどころか、私のやり方に怒った日遠は身延山久遠寺の法主を辞めてしまったのでございます。
その当時は私の頭の中はいかにして大阪城に残る豊臣家をどのようにしようかとの対策に頭が一杯でございました。
そのような時に日遠が私に逆らったわけですから、さすがの私も頭に来て日遠を捕まえて駿府の安倍川の河原で磔にするように命じたのでございます。
お万は私に日遠の助命嘆願をしてまいりましたが、私はそれを聞く耳をもちませんでした。
するとお万は二枚の死に装束を縫い出したのでございます。
私がそれはなんじゃとお万に聞きますと『師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ時ですので、二枚いるのでございます」と答えました。
その言葉にさすがの私も驚くとともに冷静になり、日遠を放免したのでございます。
日遠は翌年の1609年に現在の身延町に本遠寺(ほんのんじ)を創建しました。
また、お万は私が亡くなった後の1619年に身延山で法華経一万部読誦の大法要を催してくれております。
本遠寺は後に私とお万との間にできた頼宣・頼房により整備され、お万、といいますか法名でいうならば養珠院の墓所が建てられております。
それで本遠寺は[お万さまの寺]とも呼ばれているのでございます。
みなさん、是非身延山に行かれてお万のお墓にも参っていただければと存じます。
それでは、これにて私の次女の督姫の話を終わらせていただきます。

え~、次回は三女の振姫についてお話しさせていただきます。
えっ、前回の説明の時に督姫の子供たちの中に振姫という名前があったというのですか?
お客様は鋭い目とご記憶を持たれた方でございますね。
そうです。でも、私の三女の振姫と、督姫の娘の振姫は名前が同じでも違う姫でございます。
三女の振姫でなく、督姫の娘の振姫は伊達政宗の跡取りの忠宗に嫁がせました。
と、いいますのは、私とお梶の間にできました5女を、生れたばかりの時に伊達忠宗と婚約させたのでございます。
しかし、その姫が3歳で亡くなったため、代りに督姫の娘の振姫を忠宗に嫁がせたのでございます。
えっ、五女の名前ですが、はい、市姫と申します。
信長様の妹様で、美人であられたお市の方の名前つけさせていただきました。
そして、そのお市の方の三女が私の息子の秀忠の嫁にもらったお江でございます。
お江にはお市の方の容姿は遺伝しておらず、兄の信長様の性格が遺伝していたようでございます。
あの~、私は別にお市の方に惚れていたわけではございませんよ。本当に。

それでは次回の私の三女の振姫のお話し楽しみにしてください。
でも、少しだけお話ししますと、振姫も督姫同様に結婚を二度しているのでございます。
初婚の相手は近江日野出身の蒲生氏郷の息子の蒲生秀行でございます。
蒲生氏郷をご存じですか?えっ、よく分らない?
蒲生氏郷は信長様の次女を嫁にしていますよ。
ということは私の息子の信康とは相婿ですよ。
近江の日野はご存じですよね。えっ日野自動車の本社があるところかってですか?
いいえ、違います。
日野自動車会社は会社が東京都日野市日野台にあるので付いた名前なのでございます。
近江の日野はあの天秤棒で有名な近江商人の出たところでございます。

振姫の再婚相手は浅野長政の息子の長晃(ながあきら)です。
みなさん浅野長晟をご存じですか?えっ、ご存じない。
浅野長政はご存じですか?秀吉様の五奉行のひとりですよ。
えっ、名前は聞いたことがあるけど、なぜ出世したかがわからない?
浅野長政は婿養子でその妻はややと言って秀吉様の室の高台院様、え~と、ねね様の妹でございます。つまり、長政と秀吉様も相婿の関係になるのでございます。
そんな秀吉の五奉行のひとりがなぜ徳川の世で出生したのでございましょうか?

それでは次回も私の娘のことと、その子供たちがどのようになったかについてお話しさせていtだきます。
あの~、浅野家は元禄赤穂事件で有名な赤穂藩の浅野長矩にも関係してまいります。
しかし、赤穂藩の初代藩主は今回お話をしました池田輝政の五男の政綱なのでございます。
すみません、次回への予告にちょっと深入りしてしまいました。
皆さま、もっとお聞きになりたいようなお顔をされていますが、本日はここでお開きとさせていただきます。本日も御清聴誠にありがとうございました。

(家康のひとりごと)
池田輝政の性格を表すエピソートを言い忘れてしもうたわ。
輝政が姫路城を大きく改築するときに皆から、周りを敵に布陣されるとあまり良くない場所だったので他に移してはどうかと言われたときに「籠城するわけでなく、討って出て勝てばいいから要塞化する必要がない」と言ったことと、グフッ、福島正則から「自分は槍先で国を取ったが、お前は家康の娘をもらったから、一物で大国を取った」とからかわれた時に輝政が「たしかに自分は一物で国をとった。だが槍先でとれば天下を取ってしまったからなあ」とうそぶいていたことである。
また別の機会に話すことにしよう。

つづく

丹羽慎吾

 

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