ボクのロンドン滞在記~シン日英同盟めざして~ (その28) 遺跡名所探訪②フロイトの家探訪

(前回まで)英国の歴代王朝名の覚え方について書きました。王朝名を覚えておいて、次にそれぞれの王朝での国王医、女王の名前を覚えることをおすすめします。この日記でもその覚え方を順次披露していきます。そうやって覚えると、一挙に英国の歴史が身近なものになってくるのです・・・・・・
 
ジーグムント・フロイトの家

偶然なことに、僕が住んでいるフラットから歩いて1分もしないところに、精神分析学者フロイトが家族と住んでいた家が建っていることは、ここに住むようになってすぐに知りました。Googleマップを見れば、すぐにそれが分かるように名所として「フロイト博物館」として表示されているからです。
フロイトの業績を知ったのは大学生の頃です。一時はけっこう傾倒して、フロイトの学説を紹介する宮城音弥博士の本を読んだものでした。

そんな思い入れもあり、フロイトの家がそばにあることを知ってから、家を出て駅に向かう通勤ルートをこの家の前を通る道に変えたほどでした。

フロイトの家の前には、きれいに手入れされた垣根があり、その一画に札が立っています。そこには、

Maresfield Gardens…our last address on this planet 

メアズフィールド・ガーデン「この地球上でのわれわれの終の住処」(フロイトの自著)

と書かれています。メアズフィールド・ガーデンはここの地名です。

博物館のタイトルの下に、次の言葉が刻まれている
20 Maresfield Gardens…our last address on this planet 
メアズフィールド・ガーデン「この地球上でのわれわれの終の住処」(フロイトの自著)


フロイトは、1938年6月4日、それまで住んでいたウィーンを脱出し、パリを経由して6月6日にロンドンに到着しました。そのときイギリス国民が熱狂的に彼を迎えたとのことです。

これに遡る1938年3月11日に、ヒトラー率いるナチス・ドイツがオーストリアに侵攻しました。当時ウィーンにあったフロイト宅にもゲシュタポが2度にわたって侵入しました。ユダヤ人である自分たちに命の危険が迫ってるのを察知したフロイトはオーストリアからの出国を決意し、亡命先のロンドンでこの家を求めたのでした。

そうやって身に迫る危機から逃れたフロイトでしたが、結局この家に住んでから1年ほどでこの世を去りました。

ただ、そうであってもロンドンでこの居を構えたことは幸せなことでした。家族はその後ずっとその家に住んで自由を享受できたのです。

家は博物館になっており、僕が訪れたとき、キュレーター(説明員)から話を聴くことができました。

その話の中で、フロイトはヴァージニア・ウルフとも親交があったと言うので、
「じゃあ、彼女はこの家にも来ていたのでしょうか」
と尋ねると、
「その通りです」
と答えてくれました。

ヴァージニア・ウルフ(1885-1941)

それを聴いたとき、ぞくぞくと肌が粟立つ思いを感じました。ウルフは確か、精神を病んでいたはずです。フロイトは、ウルフの心の闇を照らす支えとなっていたのでしょうか。

フロイトの功績には計り知れないものがあります。精神分析を学問に高めたのは彼の優れた研究があったからです。

つぎの写真は世界一有名なカウチを撮ったものです。
患者はこの上に横たわり、頭側にフロイトが座りました。ペルシャじゅうたんが被せられています。
横たわって精神を解放させて話すことで患者の深層心理を吐露させ、それを分析し、治療に役立てるというスタイル(お話し療法)を確立したのがフロイトでした。

以下の写真は、邸内や裏庭などを撮影したものです。
(つづく)

 

風戸 俊城

ハイム在住。現役時代は中東、東南アジアの4か国に駐在し、40年勤務した後、現在は英国と日本を結ぶ知財プロモーターとして働く。経済・産業分野の翻訳業も手がける。

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