シンゴ歴史めぐり15 家康のつぶやき 娘たちの巻 (2019年4月記)

みなさん、おはようございます。
本日の私に与えられたテーマは私の娘たちについてでございます。
そのために昔の資料を読み込んだり、当時のことを知る者たちにいろいろと聞きこんで準備をしてきたのでございます。
しかし、新しい元号が決まりましたので、まず、その元号にかかわるお話を申しあげた方が皆さまのご興味が湧くのではと忖度させて頂き、少しテーマを変更させていただきます。
元号が天皇一人につきひとつとなりましたのは、皆さまがすでにご存じのように、明治元年つまり慶応4年(1868年)9月の『一世一元の詔(みことのり)』が始まりでございます。
その時の天皇は陸仁(むつひと)天皇でございました。
なお、この方が明治天皇と呼ばれるようになったのは亡くなられてからの「おくり名」でございます。
現役の天皇のお名前を言わねばならぬ場合には『今上天皇』とお呼びするのでございます。はい。
このたび退位される天皇のお名前は明仁(あきひと)様でこのかたが令和になると平成天皇と呼ばれます。令和で天皇になられる方のお名前は徳仁(なるひと)様でございます。この令和の天皇には御世継になられる男のお子様がいらっしゃらないとかで話題になっているようでございますね。
お世継ぎについて一世一元の始まりでございます明治天皇の場合はどうであったと申しますと、明治天皇のお子さんたちは5男10女の15人いらっしゃったのでございます。
実は私も子だくさんで、明治天皇とほぼ同じの16人の子供たちがおりました。
けれども男女の比率が明治天皇とは逆の11男5女でございました。
そして私と天皇が似ておりますのは子供の数ばかりでなく、ほかにも共通項があるのでございます。
それはまず、子を産んだ女性は一人ではないことでございます。はい。
私の場合は10名のおなごから16人の子を、明治天皇は5人の女性から15人のお子様をもうけておられるのです。
なぜそのように多くの女性に子供を産ませることができたかと申しますと、正妻以外の妻、つまり側室を持つことができたからでございます。
どなたですか、うらやましいと洩らされた声が聞こえましたよ。
昔は、地位と役職は個人ではなく家に所属しておりましたので、血のつながった者のみが家格や財産を継いで行ったのでございます。
それで家を継ぐ男の子を設けることが家の家格や財産を絶やさぬ手段でございました。
そのため側室を取り、男子を設けるという制度は当然のことであったのでございます。
これは洋の東西を問わずおこなわれておりました。
時代が変われば、世の中の基準も変わっていく良い例であると思います。
私の場合は正室の築山御前が産んだ長女と長男以外の14人の子供たちは全て側室が設けた子供でございます。
明治天皇の正室というか皇后様は左大臣一条忠香様の三女の一条美子でございました。
しかし、おふたりの間にはお子様がおできにならず、全て典侍とか権典侍という側室のお子様たちでございます。
次に私と明治天皇の子供でよく似ておりますのは、後継者が3男であるということでございます。
私の場合はご存じの秀忠でございました。
明治天皇の場合も後を継がれたのは三男の明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと、1879-1926)でございます。この方が大正天皇でございます。
そして大正天皇から昭和天皇、平成の天皇と続いていったのでございます。
なお側室制度そのものは昭和天皇の時代から無くなったのでございますが、大正天皇は側室を持たれず、皇后となられた九条節子(さだこ)様との間に四人のお子様を持たれたのでございます。
私の後をついだ秀忠もお江だけを妻としており、千姫、珠姫、勝姫、初姫と四人の姫が生れたあとに家光が生れたのでございます。さらに秀忠はお江との間には更に忠長、和子の二人をもうけております。なお、お江は信長様の姪ごで、六才年上であり、バツ2でありあましたので秀忠はお江には頭があがりませんでした。ですが、さすがに私の息子でございます、お江の目を盗んで乳母の侍女であったおなごとの間に後に保科正之となる子を設けております。話を明治天皇に戻します。

明治天皇のお子様15名のうち成人になられたのはおのこでは大正天皇のみで、おなごでは4名しかいらっしゃらないのでございます。
私の子供たちも息子、娘のそれぞれ二人ずつが10歳以下で亡くなっております。
また、長男の信康と五男の信吉は20歳で亡くなっております。
あっ、すみません、年齢の数え方は当時は数え年で表すのが習わしでしたが、今回は満年齢でお話をさせていただきます。
明治天皇の娘さんの中のひとりのお孫さんが今、話題となっておられる竹田恒(恆)和(1947年~)で、ご存じの日本オリンピック委員会(IOC)の会長を辞めると言われた方でございます。
竹田会長は明治天皇の娘の孫、つまりひ孫に当たりますから平成の天皇とはハトコ(又従兄弟)に当たるのでございますよ。ややこしいのでこのクリップをご覧ねがいます。

その家系と申しますのは、明治天皇の6女の常宮昌子(つねのみや まさこ、1888-1940)内親王が竹田宮恒久(1882年~1919年)に嫁ぎ、二人の間に生れた子が竹田恒徳(たけだ つねよし、1909年~1992年)で、その恒徳の三男が恒和IOC会長でございます。
しかし、恒和氏は皇族ではございません。
と言いますのは父の恒徳氏が1947年10月に皇籍離脱を行ったため、その直後の11月生まれの恒和氏は戦前生まれの他の4人の兄姉と違い、皇族であった時期はないのでございます。
恒和氏は慶應義塾幼稚舎より慶應義塾に学び、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業されました。父の恒徳氏が日本スケート連盟と日本馬術連盟の会長をされており、恒和氏は父に連れられてよく両方の大会の観戦に行かれたそうでございます。
それで子の恒和氏も小さい頃からいろいろなスポーツに親しんでいたのでございます。
そしてその恒和氏のお子様が武田恒泰(たけだ つねやす、1975年~)で『語られなかった皇族たちの真実』で山本七平賞を受賞した人でございます。
この恒泰氏のオリンピックの選手や、年号に対するコメントは面白いものでございます。
まず、ソチ・オリンピックの時に次のようにお話しされたそうでございます。
「メダルを取る可能性がある日本選手」へと題して「品がない上に、メダルを屈辱することになるになるのでメダルを噛む行為をしない」「国歌が流れる際には聴くのではなく歌え、日本には国歌斉唱時に胸に手を当てる文化はないので直立不動で歌うこと」。負けた際のコメントとして「思い出になったとか、楽しかったなどはあり得ない」としているのでございます。
選手の発言くらい自由でいいのではないかとの反論がございますと「日本は国費を使って選手を送り出してます。選手個人の思い出づくりのために選手を出しているわけではありません」と答えたとのことでございます。
また年号について、外務省が年表記を西暦に統一するとの報道があった際に、次のような話題を提供されております。
「元号は大宝律令により定められ元号を使うことが決まりである、聖徳太子も中国の皇帝とやり取りする時も年号を使ったので聖徳太子も泣いている」と語ったそうでございます。
しかしながら、ちょっと申し上げますと聖徳太子が大宝律令に基づき元号を使用したというのは誤りでございます。
と申しますのは、元号の始まりの大化元年は西暦645年です。
その年は皇極4年で乙巳の変があり、皇極天皇が孝徳天皇に譲位された年でございます。
それでその後の改革を『大化の改新』と言うのでございます。
聖徳太子である厩戸皇子が国書を送ったのはそれよりもず~っと前の西暦607年、つまり推古天皇15年でございました。
また、聖徳太子は西暦622年(推古天皇30年)に亡くなっておられるのでございます。
なお、公文書で元号の使用を定めた大宝律令は西暦701年(大宝元年)でございました。
大宝とはその年に対馬から金が朝廷に献上されたからです。
しかし四年後に当時の都であった藤原京に瑞雲が現われたとして慶雲に改められております。
また、その時の天皇は文武天皇でございました。

あっ、またお時間が参ったようでございます。
次回はしっかりと、私の娘たちのお話しをさせていただきたいと思います。
と、言いますのは信康、秀康、秀忠など私の息子たちのことは皆さまもよ~くご存じかと思います。
しかし、私の娘たちのうち四女と五女は幼くして亡くなりましたが、三女までの波乱に満ちた生涯を通じまして、江戸時代の始まりがどのようなものであったのか、そしてそれがどのように変化し、明治へと移っていったかを知って頂くことが出来るのではないかと考えるからでございます。
私の時代の大奥の女性では、お江や春日局たちがドラマや映画で知られております。
しかし、私の娘たちもそれなりに立派なストーリーを持っているのでございます。
「葵三代」という私、秀忠、家光の人間模様を描いた大河ドラマがございますが、徳川の娘たちという大河ドラマも作ってほしいと願うばかりでございます。

つづく

丹羽慎吾

 

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