シリーズ南武線(その1)

ハイムに住んでいる私たちにとって身近な南武線についてシリーズでお伝えしていきます。

南武線の歴史と沿革について、興味深いストーリーがあります。南武線は、私鉄の南武鉄道により開業した路線です。

1919年(大正8年)5月5日に、上平間で代々名主を務める家の生まれである秋元喜四郎が発起人総代となり、鉄道院に「多摩川砂利鉄道敷設免許申請書」を出願しました。秋元喜四郎は以前、地元の多摩川の堤防建設を進めるために、500人の村人が一丸となって県庁に直訴した「アミガサ事件」を先導した人物でした。

この線路の主な目的は、多摩川の川原で採取した砂利を運搬することでしたが、同時に多摩地域と川崎を結ぶ交通路線としての役割も担うことを目指していました。

1920年1月29日に免許が交付され、3月1日に会社を設立して「南武鉄道株式会社」と改称されました。3月17日には終点を立川まで延長し、府中町から国分寺町までの支線の敷設を追加で申請しました。

しかし、会社の設立には資金集めに苦労し、地元の発起人が次々と脱退するなど、困難な道のりでした。また、工事許可申請も何度も延期され、鉄道用地の買収もコスト削減のために農地ばかりを買い進めるなど困難な状況が続きました。

1974年 登戸駅 立川行き クモハ11

しかし、希望の光が差し込んだのは浅野セメント(現在の太平洋セメント)の浅野総一郎と浅野財閥系列企業が名乗りを上げたときでした。浅野総一郎は既に青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めており、セメントの原料の石灰石を青梅鉄道から中央本線・山手線・東海道本線経由で工場のある川崎まで運んでいました。

南武鉄道を傘下にすれば、全て自身の系列の路線で運搬することができ、輸送距離も大幅に短縮できるという利点がありました。両者の利害が一致し、南武鉄道は浅野系列となったのです。

これにより、1923年9月30日に南武鉄道の株5000株を入手した浅野総一郎の息子、浅野泰治郎が筆頭株主となったのです。

こうして、南武線は様々な困難を乗り越えながらも、地域と川崎を結ぶ重要な交通路線として発展していったのです。現在では、多くの人々が利用する便利な路線として、その歴史を刻んでいます。

参考文献:Wikipedia

(つづく)

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