パレスチナ問題とは(2)~新語・難語
毎日ニュースとなっているハマス、パレスチナ、イスラエルについて、歴史的な背景を捉えてみたいと思います。
本日はその第2回です。
パレスチナ問題の展開:1980年代から1990年代へ
1980年代、エジプトとイスラエルの和平成立により、両国間の戦争は終結しましたが、その後、パレスチナ問題は新たな局面に進展しました。パレスチナ問題は、四度にわたる中東戦争を経て、1979年にエジプトのサダト大統領がイスラエルを承認し、エジプト=イスラエル和平条約が成立しました。その後の対立軸は、パレスチナ解放機構(PLO)を中心とするパレスチナ人ゲリラ組織とイスラエルとの実質的な戦争とも言える状態へと移行しました。
アラブ側とイスラエル側のいずれにも、相手の存在を認め、共存しようとする動きが見られましたが、和平の機会はしばしば過激な反対派によって妨げられました。全面的な戦争は勃発していませんが、完全な中東和平への道のりは難しくなっていきました。
PLO対イスラエル
エジプト=イスラエル和平は、PLOを排除して成立したため、PLOのアラファト議長は激しく反発しました。PLOは拠点をヨルダンからレバノンに移し、イスラエルに対するテロ攻撃を増加させました。一方、イスラエルはエジプト和平により、南方での戦力配置を北方に転用でき、レバノンを拠点にイスラエル攻撃を行うPLOに対して全面作戦に踏み切りました。1982年、イスラエルはレバノン侵攻を開始し、PLOに対する徹底的な攻撃を行い、これは一部では第5次中東戦争と呼ばれました。その結果、PLOはベイルートを維持できなくなり、チュニジアに本拠地を移動させることとなりました。
インティファーダ(民衆蜂起)
パレスチナ問題の行き詰まりを打開する出来事の一つが、1987年にガザ地区で始まったインティファーダ(民衆蜂起)でした。従来の軍隊同士の闘いとは異なり、武器を持たずに立ち上がった民衆が、イスラエルにとって難敵となり、国際的な注目を浴びました。この蜂起は、中東和平を望む国際的な世論を形成しました。
PLOとアラファトの方向転換
一方、1988年にはPLOがパレスチナ国家の樹立を宣言し、議長アラファトが国連総会でイスラエルの存在を認め、テロ活動の停止を表明する方向転換を図りました。これが、1990年代の和平交渉への展望につながる出来事となりました。アラファトは「二国家共存」の構想を提唱し、イスラエル国家の存在を承認し、ヨルダン川西岸とガザ地区に「ミニ国家」を建設する計画を示しました。
1994年には、ガザに帰還したアラファトは、西岸のヘブロン、ナブルス、ベツレヘムを経てイェルサレムに到達することを予言し、中東和平の焦点はイスラエルがこの提案を受け入れて西岸とガザから撤退するかどうかにかかっていました。
1990年代の展望
1991年の湾岸戦争以降、アメリカの中東における影響力が増し、アメリカ主導の和平交渉が進展しました。しかし、PLOを排除した交渉は成功せず、最終的にPLOとイスラエルが直接交渉を開始し、1993年にパレスチナ暫定自治協定が成立し、パレスチナでの「二国共存」に向けた和平プロセスが前進しました。
1980年代から1990年代にかけて、パレスチナ問題は複雑な局面を迎え、和平への道のりは困難なものでした。しかし、新たな方向への動きが生まれ、和平への希望が続きました。
(つづく)
参考文献:世界史の窓(ウェブサイト)