パレスチナ問題とは(3)~新語・難語
毎日ニュースとなっているハマス、パレスチナ、イスラエルについて、歴史的な背景を捉えてみたいと思います。
本日はその第3回です。
中東問題/パレスチナ問題 2000年~現在
2000年代以降の中東問題、特にパレスチナ問題は、1990年代の和平の兆しとは対照的に、複雑で深刻な展開を見せています。この時期、同時多発テロや湾岸戦争などの出来事が中東情勢に大きな影響を及ぼし、和平への道は困難を極めました。
対立の再燃
湾岸戦争の後、アラブ世界でイスラーム原理主義運動が盛んになり、パレスチナ内でも新たな過激派組織であるハマスが勢力を拡大しました。同時に、イスラエルでも和平派政権が後退し、対パレスチナ強硬路線が強まりました。2000年9月には、イスラエル右派のリクード党首アリエル・シャロンがイスラエルの神殿の丘に立ち入ったことがきっかけとなり、第2次インティファーダ(抗議運動)が勃発し、対立が再燃しました。翌2001年にはシャロン政権が誕生し、対パレスチナ強硬姿勢が一段と強化されました。
パレスチナ問題の混迷
2001年に発生したアメリカ同時多発テロはアラブ過激派の行為とされ、緊張が高まりました。イスラエルではパレスチナ自治政府のアラファトを軟禁状態にし、対立は深まりました。しかし、アメリカは中東和平を進める必要性を認識し、2003年には中東和平ロードマップを提唱しました。イスラエルもガザ地区からの撤退を進めました。しかし、2004年にアラファトが亡くなり、その後の和平交渉が進展しないまま、対立は続きました。
問題の複雑化
イスラエルはガザ地区からの入植者の撤退を実現しましたが、ヨルダン川西岸地区ではユダヤ人の入植と防壁の建設が進められ、対立は依然として根深いものとなりました。パレスチナではハマスが勢力を伸ばし、ガザ地区での総選挙で第1党となり、ファタハとの対立が深刻化し、パレスチナは分裂状態に陥りました。一方、イスラエルではネタニヤフ率いるリクード党が政権を握り、和平への態度は硬化しました。2008年にはガザ戦争が勃発し、対立は一層悪化しました。
オバマ演説と中東問題
2009年、アメリカのオバマ大統領は中東問題について演説し、和平の必要性を訴えました。しかし、現実には和平に向けた進展は見られず、対立が続きました。特に、「二国家共存」路線を進めていたパレスチナ側のPLOが後退し、ハマスの勢力が増大しました。イスラエルでもパレスチナ国家の存在を否定する大イスラエル主義が根強く、対立が深刻化しました。
2021年5月 ガザ戦争
2021年5月には、パレスチナ自治区のガザ地区で新たな紛争が勃発しました。原因は東イェルサレムでの出来事から発端し、ガザ地区からのロケット攻撃とイスラエル軍の報復によるガザ戦争となりました。この紛争はSNSを通じて情報が拡散され、双方の怒りを煽る要因ともなりました。
(つづく)
参考文献:世界史の窓(ウェブサイト)