多摩川は氾濫のたびに何度も流路を変えており、ほぼ現在の流路に近くなったのは天保7年(1836年)といわれている。多摩川の流路の変化により村が寸断された例は先に見たとおりだが、もう一つ登戸についての興味深い話をご紹介しよう。

登戸は現在川崎側にあるが、古く戦国時代にはなんと東京側(狛江側)の村であったのである。
当時、登戸は小田原北条氏の領地で、古文書には「多波川北、駒井登戸」とあり、これからも多摩川の北の駒井という地区の村であることがわかる。現在も、狛江市には駒井という地名が残っている。因みに、登戸という地名の由来だが、街道を北から多摩川を渡し舟で渡りすぐに生田の丘陵へかかる「登り口」という意味合いであるというのが柳田国男説である。

そして、最後になったが、わが中野島について。
古く鎌倉時代、多摩川は小沢城のすぐ下を流れていたと文献にあるし、戦国時代にも現在の二ケ領用水辺りか、あるいは現在の府中街道辺りのもっと生田の山際近くを本流が流れていたと思われる。しかし、天正18年(1590年)の氾濫でその本流の流路が北に大きく移動し、その時登戸は川崎側となり、同時に中野島も大きく変化したのである。それまでの中野島は、多摩川の本流が生田の山際近くを流れていた時にも幾筋もの分岐した流れの中にできた中洲ではあったようだ。しかし、その面積は小さくまだ無住の土地で、近隣の土淵あたりの人が釣りをしに行く程度の中洲だったようだ。それが、その時の氾濫で突然以前の2倍程度の中洲へと大きく変化したのである。
その地に最初に住居を構えて開拓し始めたのが、鎌倉の小林郷から来た万蔵という人物で、現在の中野島の田村家の祖先である。その後、対岸の調布金子村の祐右衛門も一族とともにこの中野島に移り住み開拓を始めた。それが現在の中野島の古谷家の祖先である。これが中野島の初期の姿である。その後次々と移住するものも増え、ほどなく二ケ領用水の開削も始まり、整備される頃には、中野島の中洲は肥沃な耕作地として生まれ変わっていた。

時代がずっと下って明治期であるが、我々が最近目にしたこの明治14年にフランス人によって作成された近代的な地図を見ると、中野島・登戸近辺はまだ家屋も非常に疎らな田園地帯で、中野島村の中央を菅馬場方面から登戸へ通じる稲田本線という街道が通っている。現在の中の島橋から中野島中学入口の交差点、さらに公民館の前を通って、登戸方面へと続く道である。その街道の両側には田村家・古谷家等主だった家が居を構え、また米屋・畳屋・傘屋・煙草屋・酒屋など生活に必要なものを商う店なども軒を並べていた由。

多摩川は現代でこそ堤防が整備され昔のように村の帰属が変わるような大洪水は少なくなっている。しかし、明治14年の地図を見ると現在の中野島5丁目あたりから下流のところはどうも堤防が築かれていたようには見えない。それは多摩川がそこで右に大きくカーブする内側で流れが緩やかだったことがその理由だったかもしれない。そして、少し下流の現在の登戸新町のあるあたりはすべて自然堤防の外側、つまり河川敷そのもので地図には「荒」とだけ表示されている。これは大正6年測量の地図でも同じで、その後その河川敷を取り込むような新たな堤防の整備とともに登戸新町として住宅地化されたものと思われる。下の地図は明治14年のものと現在の地図を対比したもの。クリックすると少し拡大が出来ます。

多摩川の流路と河川敷を含む川幅がどのように変化してきたかを見ることは興味深いものがある。稲城長沼あたりから武蔵小杉あたりまでの多摩川は、古い時代には右岸は多摩横山と言われる丘陵近くまで、左岸は狛江から野毛辺りの小高い丘あたりまでの間の幅広い流域をいく筋もの細流に分かれながら自由気ままに流れていたことが窺える。明治14年の地図でもそのかつての河川敷や中洲だったところには人家もまばらでほとんどが耕作地などで、まだしっかりとした堤防は見られず、度々の氾濫に悩まされ続けていたはずだ。しかし、その後時代が下るに連れ、両岸に人家も増え堤防も整備されてきたことから、多摩川の流れはより制御され川幅は両岸からどんどん細く狭められてきたように見える。明治期の地図と現在の地図と見比べるとその変化の大きさに驚かされる。

(Henk)

参考文献:
川崎市史
稲毛郷土史
稲田郷土史料集第1-3巻

(Henk)

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