中野島駅と稲荷神社

かつて、中野島駅の周りには、特産の梨畑が多くありましたが、宅地化が進んでめっきり減ってきました。まわりは一戸建ての住宅地や高層の集合住宅に変わりつつあります。特に最近は、建設中の市営住宅やマンションなどが多いように思います。
駅も単線のころには行き違い設備のない一本の線路が通っていて、夜ともなれば運転間隔が延び、ポツンと灯るホーム上屋の電灯の下で、20分も30分も電車を待つというような寂しい状態だったそうです。

この駅には砂利採取場からの線路が、多摩川の岸から大きくカーブして立川の方に向かって入ってきていました。その線路がこちらの本線と並行するあたりに立川寄りに亘り線がついていました。

その頃のホームは長さ40メートルで、せいぜい2両編成までの列車に対応できるだけでしたが、畑の中のこうした駅のたたずまいは、野趣に満ちたものがあったそうです。今から50年も前の話です。

中野島は、流路をしばしば変えていた多摩川が、長い年月のうちに作り上げた中洲のような形の沖積地であったと考えられています。中野島という地名は、そうしたところから付けられたものでしょうが、近世に入ると幕府の方針で新田開発が盛んになり、中野島でも耕地が開かれていきました。

またここから、少し上流の上布田(甲州街道の上布田宿に所属)には、登戸と並ぶ二ヶ領用水のもう一つの取水口がありました。二ヶ領用水は、中野島の南、菅や生田との境を東のほうに流れ、登戸と枡形との境で津久井街道、次いで小田急電鉄小田原線の向ヶ丘遊園の少し南で線路をくぐり、宿河原、長尾に出て北東に進み、東名高速道路の下をくぐると、登戸から流れてきたもう一本の用水新川と久地駅のすぐ近くで合流します。

このような環境の中で、近代に入ると果樹栽培、特に梨や桃の栽培が盛んになりました。特に大師河原村の当麻辰次郎(屋号・長十郎)が、甘くて水分が多く、梨の伝染病である黒星病に強い新種を開発すると、「長十郎梨」として急速にひろまり、ここから稲城にかけて梨が特産となりました。

中野島駅  年表
1927年(昭和 2年) 南武鉄道登戸 – 大丸(現:南多摩)間の開通時に、中野島停留場として開業。
1929年(昭和 4年) 駅に昇格、同時に貨物取扱を開始。
1944年(昭和19年) 南武鉄道線が国有化、運輸通信省南武線の駅となる。
1947年(昭和22年) 現在地に移転。旧駅は約400m登戸寄りの地点にあった。旧駅付近から伸びている商店街の名前が「中野島”中央通”商店街」であることはその名残である。
1955年(昭和30年) 貨物取扱廃止。
1987年(昭和62年) 国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる。
2001年(平成13年) ICカード「Suica」の利用が可能となる。
2007年(平成19年) みどりの窓口営業終了。指定席券売機が稼動開始。
2011年(平成23年) 快速運転開始に伴い、停車駅になる。
2014年(平成26年) 快速運転区間稲城長沼駅延長に伴い通過駅になる。
2019年(令和 元年)
臨時改札口の使用を開始。

中野島の駅の南西、二ヶ領用水の近くに稲荷神社があります。この神社は18世紀の初めの頃二ヶ領用水の改修工事を行った時、多摩川の氾濫によって改修中の堤防が何度も破壊されるので、堤防を守るために建てた神社という説があります。

この神社の境内には「明治三十七、八年戦役記念碑」があり、この碑は日露戦争に中野島から出征した17名の兵士が全員帰還したので、その氏名を記念するために建てたもので、氏名が刻んであります。同じ境内には「乾魂碑」があり、これには15年戦争の戦没者21名の氏名が刻まれています。戦争が村の人々にもたらした悲喜交々の記念碑です。

(参考文献:中野島いまむかし)

中野島駅と稲荷神社” に対して1件のコメントがあります。

  1. アバター なかの しまこ より:

    中野島のお話、身近で興味深く読んでいます。
    今回の年表にある1947年に中野島駅が現在の位置に移動したのは、ハイムの敷地に建っていたキトー製作所の荷出しのためと聞いたことがあります。
    多摩クリニックの所にあった「千葉電機」という町の電気屋さんは、キトーに働きに来ていた出稼ぎの人や、ハイム建設作業の人が年末に里に帰るにあたって「12月になると電化製品が飛ぶように売れ配送した」と話してくれたことを思い出しました。

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