わるがきは、「悪るがき」ではない。と私は思うのです。子供たちの成長を考える時に、私は山の森のことを思うのです。

森の樹木は、多種多様の木が集まって森をつくっています。大きい木は、足元の小さい木に守られて水を吸い上げることができている。また大きな木は、葉っぱを落として、小さな木の栄養にしている。

それだけでは森の樹木は山の動物や小鳥たちのエサになっているが、そのためにダメになる木はない。また草花たちも昆虫たちのエサになっているが、それで死んでいく草花はほとんどない。樹木がダメになるときは、必ず人間の手が関わっている。つまり共生していれば何百年も森の樹木たちは成長し続ける。

自然界は、自然に申し合わせて生きているようだが、人間は違うのだ。「自分が気に入らなければ」「お前のことをしかりとばしたり、嫌がらせをやってのける」その大人たちを見ている子供は、自分を主張する人が嫌がることをやって衆目をあつめる。自己主張が「わるがき」というレッテルを張られてしまう。このわるがきが森の中の一員であったなら、自分勝手にしたら生きていけなくなる。なぜなら、どんな大きな木でも一本立っていると必ず力を失って枯れてく運命がある。小さな樹木が大木の周りに生息しているから大木は何百年も生きられる。とて、大木が小さな樹木のことは忘れていない。必ず枯葉を落として彼らの栄養を与えている。

さて、学校の先生や親方たち、仲間たちから「つまはじき」された子供、少年はもう森の一員にはなれず、絶えず自分を主張しないと、注目してもらえなくなるが、結果、出来の悪い子供だ。
学校にもきてもらいたくない生徒だ。
家庭では姉さんがいいのだが、弟は恥ずかしい万引き、チャリンコを盗んで警察にお世話になる—こういう子供たちを「わるがき」とつぶやいてみたいのです。

この子らは、ほんとうに「悪るがき」なのかと。あの山の大木のように大人の樹が、ちいさな子供たちのために栄養になる葉っぱなるものを与えているだろうか?
学校はまず「悪い子」とレッテルを張る。
警察は補導何回の少年だ。
親元は、いつも警察に呼び出されて、近所に恥ずかしい!と言って子供は居場所を失って、必然的に類が類を求めて「悪る」の仲間が集まってしまう。だが、この「悪る」の仲間は、世界に対して自分の立場をはっきりさせるために、茶髪にしたり、イヤリングをつけたり、腰にチェーンをぶら下げたりして、オレはこういう自分だぞ!と主張する。

ところがこういう子供、少年ほど大木が落としてくれる落ち葉が必要なのです。彼らは狭い空き地でも、三角ベースの草野球で楽しむ。学校の運動部は強く、運動場は陸上部やテニス部や野球部が使って、普通の少年たちは遊べない。つまり遊ぶ場所を捜す時から「わるがき」の知恵が働くのだが、そのことに多くの大人は目をむく。

だが、それはことごとく彼らの行動に大人たちはクレームをつけて、学校や警察に言いつけて悪るがきにしてしまう。私は、そんな悪るがきの仲間の子供を知っており、遂に、「オッチャン」わしらに草野球を教えてくれんか?と言われた。それがきっかけで毎週、土日の午後から空地で8人くらいが二つのチームにわかれて始めたのだ。近所の嫌われ者を集めて!

初めは誰もがぐーたらで真面目にボール拾いもしないが、私がキャッチャーを引き受け、四人四人のチームで、三角ベースの草野球を始めた。うまいのは一人だけ、あとへたっぴで捕球も満足にできない。だらだら球を追っていたが、いつからか走ってボールを追いかけるようになった。この草野球の少年は「悪るがき」ではなく「わるがき」になってきた。

野球が終わると60円のアイスキャンディーを買ってきて、反省しながらキャンディーを食べる。「おじさん、あそこの外野のところ草刈らないと、ボールがなくなる。」

「じゃ、終わったあとみんな草刈るか?」
「やろう!」
「けど公園の人に許可とらんといかんぞ」
ということで、何事も自分の勝手にやってはいけないということを学んでいく−−

「小さい子供もいるのに、野球などやりやがって、けしからん!」
と公園の管理人が学校に訴えたり、このわるがきに怒鳴りつけてきたが、この草刈りをやって、ここで野球をやらせてください。と申し込ませたら、管理人は、子供たちにしぶしぶ許してくれた。こういうことの繰り返しで、子供は大人へと成長していくのだと思う。

「学校へ行けても、子供は変わらない。反発しかない」という事実から、わるがきは「悪るがき」ではない、と応援したいと思うのです。さて、どんなわるがきが出てくるのだろうか、私も楽しみにつぶやいていけたらいいなと思っています。

 

 

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